金曜日, 12月 01, 2006

いじめ報道の正体

 山形県のことはバカじゃないのと言うことで私も取り上げたが、それにしてもマスコミの取り上げ方(報道ステーションとか)は、やり過ぎである。私がこの件を取り上げた理由は、自分周りの空気(教育委員会)が世間の空気(一般常識)よりも重視されるのと同じ構造がいじめを引き起こす体質なのだということを指摘したかったわけだが、大マスコミのやっていることは、それ以前のいじめていいという空気を察すると我先にいじめを行なう(そしてより過激に)。そしていじめている理由が正当だから何をしても構わないのだという間違った倫理観(あんなものが倫理なら私憤の方がよっぽど美しい)にとらわれていることは間違いない。

 大体自分が正義だと思っている奴らに正義があったためしなどないではないか。常に正義とは多数の方にあると言いはるのが民主主義。異論を認めなければ正義など存在し得ないことを知らぬとは言わせない。この辺は本当の保守(商業保守は保守じゃない)ならば分かった上で了解する事項もサヨク(商業サヨクも全く同様)は、単なる御為ごかしを正義の根拠として使いやがる。そして実体がどうなろうが本当のところはどうでも言いくせして、同情(一緒に解決しようとしているわけではなく、あくまでも高みの見物で同じ気分を味わうだけ)してみせるのだ。

 マスコミのやっていることは昔から極端に振れる。理由は明らかに自分たちに火の粉が飛んでこないように、自分たちから目をそらさせるのが最大の目的だ。それ以外にはない。自分に被害が及ばなければ冤罪でもなんでも面白がって書き立て、冤罪だと分かれば今度は司法を叩く。裁判前に犯人と決めつけるのは法治国家としておかしくないと思っているのだろうか。報道の自由とは憶測やデマを世間に広めることとは別問題である。

結論:事実を選択的に取捨し、都合の良い部分だけを利用する報道のあり方はまさにいじめである。最近のいじめ報道そのものがいじめを平気で行なっている(いじめられている奴らに非がないと言っているわけではない)ことに気付いているのだろうか。昔からよってたかって誰からも助けてもらえない奴を攻撃するのをいじめと言うのだ。

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