月曜日, 11月 30, 2015

iPad ProはPCの代わりになるのか?

Windows PC(Surface Bookを含む)やSurface Pro 4とスペックを比較するというトンチンカンな記事が多いが、どう言うわけかと言うよりも当然の話なのだが何故かAndroidのタブレットとの比較はまずない。

出荷台数ではAndroidタブレットの方がシェアが高いなどと未だに出ているが、スマートフォンと同じでハイエンド市場でiPadと渡り合っているAndroidタブレットなど無きに等しい状況なので比較記事もないのだろうがWindowsベースのニコイチとiPad Proの比較など的外れも甚だしいだろう。

iPad ProはPC(Macは含まない)の代わりではないし、iPadとMacの間を埋める製品でもない(もちろんそういう使い方もできる)。iPadが閲覧と業務システムのフロントエンド端末だとすればiPad Proは単独で何かを作るためのツール。素描などMacでは面倒な作業はiPad Pro + Apple Pencilの方がずっと簡単にこなすことが出来る。簡単な作業であればMacよりもiPadの方が優れているのと同じようにどれか一つで全てを賄おうと言う発想でAppleが製品開発を行っていないことはユーザーなら承知のことである。

Surface Proはジリ貧状態のPC市場をどうにかしなければとMicrosoftがひねり出した製品。同時に法人に対する有効打が出せずにいるAndroid陣営に切り込める絶好のチャンスであることも間違いないがあくまでPCの代替えであってiPad Proとはターゲットの違う製品。TimがMacとiPadをニコイチにする気など更々無いとコメントしていたが全くその通りなのである。

結論:iPad ProはPCの置き換えではなくPCではうまくできないことをこなすためのデバイスでありPCの方が適している業務を行うものでは無い。その辺が分からない人は黙ってSurface Proでも使えば良いのだ。

金曜日, 11月 20, 2015

ISを作ったのは誰か?

前にも書いているのでもうご存知の話だと思うがISを作ったのはシリアのアサド政権(ロシアへのパイプラインを計画)をを潰したかったアメリカ(ロックフェラー、軍隊、CIA)。そしてシリアを支援するのは歴史的につながりの強いロシアとフランス。そのロシアの旅客機が爆破され、パリで銃撃とテロの被害にあっている。陰謀論的に見ればアル・カーイダと同じ生みの親(モサド、CIA、MI6)となるわけだが、裏で米英の戦争屋(D・ロックフェラー)が糸を引いているのを承知の上でロシアとフランスは手をつないでISだけではなくシリアの反政府勢力(これもロックフェラーの)に対し空爆を実行したわけである。オバマはレイムダックなだけではなく元々欧州(反映米側)に近い大統領(J・ロックフェラーやロスチャイルド寄り)なので積極的に空爆に関わらない形で欧州に協力しているとも取れるのである。

結論:中東を起点とする問題はオスマントルコ帝国を崩壊させ、欧米諸国がバラバラに植民地支配を行ったことが原因なのである。

火曜日, 11月 17, 2015

ISのテロを仕切っているのは?

シリアのアサド政権を潰すためにつかアメリカの戦争屋によって作り出したと噂されている(恐らく事実)IS。どこかに紛争が起きていないと困る軍産複合体にとってうってつけの存在であるのは間違いない。まあ、今回はその辺はどうでも良い話なのだが…

今回のパリのISによるテロでは多くの犠牲者を出し尊い命を奪われた人たちには哀悼の念を抱くばかりであるが、その中で非常に気になることが世界中で同時多発的に起こったのである。Facebookのプロフィール写真がトリコロールになるのは別に気にするようなことではないのだがアメリカの国会議事堂、オースロラリアのオペラハウス、東京タワー、スカイツリー、エンパイアステートビル、ニューヨークワールドトレードセンター、コルコバードのキリスト像、ブランデンブルグ門と多くのランドマークが翌日の晩にはライトアップされた。

どうしてこんなにタイミングよく準備できたと思えるのだが、これは国連創設70周年で10月25日にブルーにライトアップしていたことが判明。準備は整っていたわけだがじゃあ誰がライトアップをしましょうと仕切ったのかは謎。

結論:911の時に見事に同時多発テロが起こったように今回のテロもライトアップも含めてどこが仕切ったのかが気になるのだ。誰も仕切っていないのに皆が同じような行動を起こすのも気持ち悪いが…

月曜日, 11月 02, 2015

幕府崩壊は何が原因だったのか?

年表
1853年3月11日(嘉永6年2月2日):小田原地震(神奈川)
    推定マグニチュード 6.5。全壊した家は1,032戸、半壊した家は2,477戸、
    被害が出た家は544戸。死者も24人。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日):ペリー来航
1854年3月31日(嘉永7年3月3日):日米和親条約締結
1984年7月9日(嘉永7年6月15日):伊賀上野地震(三重)
 推定マグニチュードは7 1/4(兵庫県南部地震とほぼ同じ)。死者は995名。
 うち伊賀上野付近の死者は625名、負傷者994名、家屋倒壊2270戸、306件。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日):安政東海地震(東海沖)
    推定マグニチュードは M = 8.4。被害は関東地方から近畿地方におよび、
    沼津から伊勢湾岸沿い、特に箱根から見附あたりの東海道筋で家屋倒壊・焼
    失が著しく、また、甲府盆地も被害が甚大であった。家屋の倒壊は甲斐・信
    濃・近江・摂津・越前・加賀までおよぶ。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日): 安政南海地震(南海沖)
    推定マグニチュードは M = 8.4に換算。被害は中部地方から九州地方へ及び、
    2つの巨大地震が重なった近畿地方では東海地震における被害と明確に区別ができない。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日): 豊予海峡地震(大分)
    推定マグニチュード(M)7.4の地震。2日前に発生した安政南海地震と被害
    地域が重なるため、現存する記録からはいずれの地震による被害か区別が困難
1855年11月11日(安政2年10月2日):安政江戸地震(南関東直下)
    推定マグニチュードM7クラスの震度6の直下型地震。死者は町方において
    10月6日の初回の幕府による公式調査では4,394人[21]、10月中旬の2回目
    の調査では4741人であり、倒壊家屋14346戸。死者推定1万人。
1856年8月21日(安政3年7月21日):ハリス下田に総領事として着任
1856年8月23日(安政3年7月23日):安政八戸沖地震(青森)
    推定マグニチュードは M = 6.9 に換算。津波による甚大な被害。
1858年4月9日(安政5年2月26日):飛越地震(北陸)
    推定マグニチュードはM7.0 - 7.1。北陸地方や飛騨国を中心に大きな被害を
    もたらし、死者426人、負傷646人、家屋の全半壊・流失2190戸とされてい
    る。家屋の倒壊も著しく、飛騨では700戸余りが損壊し、死者200 - 300人。
1858年7月29日(安政5年6月19日):日米修好通商条約締結
1858年10月11日-(安政5年9月5日-):安政の大獄
1860年3月24日(安政7年3月3日): 桜田門外の変

結論:これだけの地震が幕末の短期間に立て続けに起こったのではどんな政権でも続くわけがない。幕府が薩長との戦争を回避しようとしたのはそれどころではなかったからなのである。