金曜日, 10月 28, 2005

日本力は通用するのか?

 最近海外では、日本の文化(アニメ、オタク)を評価する動きが強くなってきている。過去に何度かあったブームの再来であることは間違いないが、ここでアニメやオタクだけが日本の力を代表している訳ではないことをもっと認識するべきである。戦後の日本は自国の文化を否定するところからスタートしたが、まだ全てが死に絶えた訳ではない。物作りを高く評価する文化はアメリカには見られない物であるが、文化だけで生き残っているフランスでは日本文化の底の深さを認めている。

 では何故日本の文化にそこまで深みが加わったのだろう。それはまさしく鎖国をした江戸時代が260年も続いたことに尽きる。明治以降徳川幕府を否定する形で西洋化を進めてきたため、江戸時代の封建社会をヨーロッパ型の封建主義と同一に扱ってきた。そのため幕府と言う組織は閉鎖的で無知なものであると為ざるおえなかった(欧米よりも進んでいたとは言えなかったのである)。蘭学が広まり始めた時に幕府はこれを禁じたため、それを学んでいなかったと思い込んだのである。黒船がやって来た時にはただ慌てふためいていただけの無知蒙昧な組織が幕府であったと思わせたかったのだ。しかし、当時の幕府はオランダや中国を通じて世界の情報を的確に掴んでいた。当時国内で一番正確な情報を握っていたのが幕府だったのだ。

 黒船に装備されている大砲の種類に関しても知識を持っていたし、欧米諸国がアジアの植民地に対してどういうことを行っているかも全て承知していた。鎖国とは、国を完全に閉ざすことではなくキリスト教徒による征服を排除する為の政策だったのである。そして現代人が考えているよりもずっと柔軟な身分社会(町人には兵役や納税の義務もなかった)の中で階層を持たない幅広い文化を育てていったのである。それが物作りの文化を築き上げたのだ。

結論:戦国時代、種子島で初めて手にした火縄銃はわずかの間に世界一の保有量になっていた(この段階でポルトガルやスペインは日本の征服を諦めざるおえなくなってしまった)。秀吉の朝鮮征伐(本当は中国征服)を批判する人が多いが、戦国時代の日本の軍事力は恐らく当時世界一だったはずである。当時のスペイン王は中国の征服を考えていたのでそれを防ぐために中国を日本の支配下に置こうとしたのが朝鮮征伐だった。昔から日本の力は侮れない。わずか60年位でそれが消えうせてしまうことなどないだろう。

光が地上波デジタルを葬り去る

 予てから何度も言ってきたことがある。ガス会社は電気会社に変わり、電気会社は通信に向かい、電話会社は放送に向かわざるおえなくなる。
 どういうことかと言えば、ガス会社は燃料電池を各家庭に設置させることが出来ると、電気会社は電気では利益を得られなくなり、通信事業に手を伸ばさなければ無くなる。そうすると通信会社は通信だけでは利益を得られなくなるため通信用の光ファイバーを利用したIP網を利用していずれ放送コンテンツの送信を行うようになる。それは、もう間近のことであるが放送業界はまだそのことを理解していない。割り当てられいる電波を後生大事にしているうちに取り残されてしまう。放送局自体が乗り気でない地上波デジタルなどに付きあっていたのでは、それこそのたれ死んでしまう。

 放送と言う事業自体が再編されようとしている現在(スカパーはNTTの光で配信されることになった)、テレビ局に残された生き残りの道はコンテンツの製作しかない(ほとんど外注に頼っている今、放送局に番組を作る能力など無いかも知れない)。これからは、テレビ局の下請けであった制作会社こそ、テレビ局以上に重要な存在になるのだ。三木谷さんはその辺が全然理解出来ていない旧世代の人種なのである。

結論:テレビ会社を買う金があったら、番組制作会社とのコネクション作りに金を使った方が良い。その辺りをテレビ局に抑えられているから、テレビ会社を買うんだというのは自らコンテンツの幅を狭めることになる(つまりSONY化すること)と気付けばAppleのように成長出来るだろう(Appleは既にそこまで準備をしているはずだ)。地上波デジタルの本放送は墨田区に第二東京タワーを作って終わりになるかも知れない。

木曜日, 10月 27, 2005

携帯ビデオには需要がない

 iPodもビデオが見えるようになったため、携帯ビデオがこれから来るなど(恐らくそうなって欲しいと言う願望だろうが)と馬鹿なことを考えている人達が多いようだ。絶対に来ないとここで断言してしまおう。何故ならば音楽プレイヤーには、Walkmanが出る前にはラジカセのヒットがあったし、Walkmanは携帯CDやMDへと進化していった(大したことがない進化であったかもしれないが)。それに引き換えビデオはどうかと言えば車載型のビデオやDVDはそれなりに売れているが携帯タイプは需要が全くないに等しい。つまり物珍しさで買う奴がいるかどうかであってどうしても必要で買うようなものではないのである。

 外出先でDVDを見たい人はDVDプレイヤーではなくノートPCを使う(ノートPCの方が画面は大きい)だろう。携帯電話で2時間もビデオを見ると言うのも聞いたことがない。ようするにビデオというものはそういうものなのである。ながらで視聴が可能な音楽とは違いビデオは視覚を占有するため注視しなければいけない。読書と違ってこちらのペースで見ることも出来ないのだから、メディアとしては自由度が低過ぎるのである。PSPはUMDを使ってDVDクラスの動画を見られると言うがDVDをコピーしてUMDが作れる訳でないから新たに買い足さなければいけない。そこまでするような作品がごろごろ転がっているとでも思っているのだろうか。PSPでの動画を普及させたいならばDVDをUMDに変換するソフトを付けなければいけないのにUMDは書き込む装置がない。そうなればリッピングしたデータをメモリースティックに入れて見なければいけないが映画が入る容量のメモステは5万円近くするのだから、そんなことをする奴は馬鹿である。つまりビデオが見ることの出来るiPodとPSPは全く違う次元のプレイヤーなのである。

結論:iPodのおかげで携帯ビデオのすそ野は広がるだろうが、販売されるものはショートムービー位で、後は無料で見えるビデオポッドキャストになるだろう。ニュースなどのタイムシフトとしての役目を担うにはPSPにかかるコストは高過ぎるのである。

火曜日, 10月 25, 2005

自ら選択肢を減らすIT業界のメディア支配

 楽天によるTBSの買収(そうじゃないと言っても実質はそうなのだ)騒動。CX(フジテレビ)の時にも書いたことなのだが、傘下にテレビ局を持つことは力を失う原因になってしまう。これは、SONYの失敗を見ていれば明らかなことなのだ。天下のSONYはその配下に映画とレコード会社を抱えているため、非ネットワーク時代(非デジタル)には、最強の布陣であったが、今はそれが足かせとなってしまって身動きが取れなくなっている(動こうにも配下のメディアを犠牲には出来ないからだ)。そのために、フットワークは家電業界の中にあっても一番遅くなってしまった(ユニバーサルを手放した松下は結局得をした)。

 楽天は何がやりたいのだろう。まさかテレビ番組の配信で客集めをしようと言う訳ではないだろうが(そう考えているとしたら臍で茶が沸いてしまう)、意味が全くわからない。ライブドアのように最後は高く株を買い取らせるのが一番だ。それくらいハードとしてのテレビ局に魅力はない(会社では無くコンテンツが重要なのだ)。

 大体、ネットワークで配信が可能な時代に地上波デジタルなどという戯けたことに付き合うようなメディアに将来はない。何故ならば地上波デジタル放送に対応出来るような人達は、すぐにでも光ファイバー放送に対応出来る人達だ。現在の地上波にしか対応出来ない人達が地上波デジタルなど所詮無理な話だ(放送は無料でハードが合計で5万以下にならなければ広まりようがない)。

結論:他にいくらでも放送すべき問題があるのに、郵政民営化法案に反対した議員の処分はどうなるかなどと言うどうでもいい問題(本人以外には関係ないことだ)で騒いでいるメディアなど買っても高い給料ばかり取っている出来損ないを社内に抱えるだけだと速く気付いてもらいたいものである。

金曜日, 10月 21, 2005

DVD戦争は内輪もめ

 BD(ブルーレイ)かHD DVDかと互いに覇権争いをしようとしているが、そんなことをやっている暇は無い。既に日本の通信環境はFTTHが当たり前になり(yahooはADSLをもう諦めた)、今更ディスクと言うのはないのだ。それはリライトが出来るとか出来ないと言うレベルの話ではない。40G位の容量ならば近いうちにメモリーに取って代わられるし、アクセススピードはHDDには到底かなわない。PCが介さない環境でしか有り難みのない商品がどれくらい売れるかなど、フタを開けてみる必要さえ無い。もう勝負は終わっている。

 これからの時代、稼働部分を持っているデジタルデバイスには明るい未来は待っていない。1Tを越える容量を可能とするHDDは別にして、100Gに届かない光ディスクでは意味がないばかりか(フルハイビジョンでも100Gという容量はいらない)、提供しようとしているコンテンツは光ケーブルで配信可能な容量でしかないのである。そうだとすれば、どちらが良いかなどと言っている場合ではないことに気付かなければいけない。どちらか一本に絞れれば生き残りの可能性があるが、そうでなければ消える運命になってしまうのである。

結論:お互いにどうにかしてシンパを増やそうとしているが、洞ヶ峠を決め込んでいるメーカーの方が多いはずだ。真っ先に商品を出す気は毛頭無いのだから、松下が乗らなかった東芝は早めに手を引いた方が良い。今回だけはSONYが勝ち組になれそうである(でも寿命は短いよ)。

水曜日, 10月 19, 2005

少々心外だが

 ”少々心外だが”と言う言葉を経営者の口から聞くことが出来た。どういうことかと言えば、安値にある自社の株を平気でほったらかしているほど経営陣がアホウであることを世間に示されてしまったからである。資本主義の世の中にあって、安い株を買い、高く売って利益を得ることは何も問題になることではない(私は嫌いだが)。自社株を購入するなりして株価を安定させることはいくらでもやれたのに、それをしなかったと言うことは株を買い占めてくれと言っているのと同様なのだ。恐らく天下のTBSはニッポン放送とは違うと高を括っていたのだろう。

 大マスコミで良く吐かれる言葉に公共のと言う言い草がある。公共と言うならば経営形態として営利を目的とする民間企業であってはおかしいと考える私はおかしいのだろうか。アヤツラの考え方は典型的な三段論法だ。
第一段階:電波は公共の財産である。これは正しい。
第二段階:放送事業は免許制である。これも正しい。
第三段階:公共の電波が割り当てられる放送は公共の事業である。これは成り立たない。

 それなのに、ニッポン放送の時もそうだったが、公共の電波=公共の事業(この式が成り立たないのは前述)を錦の御旗にして偉そうなことを言う。上場している限りはこんな馬鹿なことを言ってはいけないのである。公共の福祉に貢献するためにやっていると言うなら、今のような下らない番組を垂れ流すのは明らかにおかしい。公共と言いたいのならばさっさと上場は取りやめ、寄付で成り立たせる経営形態にしてしまえ。

 まあ、社会の木鐸などと言って捏造記事や裏のとれていない記事(ヤラセやでっち上げという的確な言葉がある)を平気で誌面に載せて、謝罪さえしないのに自らをクォリティペーパーだと思っている大新聞社があったりする国では世界の常識は成り立たないのかも知れない。

結論:大株主がいないマスコミは、いつ株式を買い占められるかを念頭に経営を行わなければいけない。それもしないで心外だなんて、それこそ心外だ。

靖国はもう外交手段にはならない

 小泉純一郎が靖国を私人として(どっちでもいいが)参拝したが、今回の抗議は今一つの印象を受けた。これは、画期的なことであろう。靖国や教科書問題をことさら大きく取り上げて騒ぎ立てる新聞社がすっかり信用を無くしたことが大きく影響しているのである。ここのところ繰り替えして捏造とでっちあげ記事で乱発している朝日新聞のことである。もともと靖国問題は内政問題であり、それを他国があれこれ言うこと自体がおかしな話であるのだが、それを利用して左翼新聞である朝日がご注進して中国や韓国などの反日感情の強い国を焚きつけ、それを現地から発生しているという抗議行動として日本に返すと言うマッチポンプの構造が破綻しようとしているのだ。

 朝日は、自身をクオリティティ・ペーパーだと勝手に思い込んでいるが、戦前を含めて一度もそうだったことはない。戦後の民主主義(左傾)と合致していたために、進歩的と思われてきたことが(進歩的文化人という無責任な連中となれ合っていたと言うことだ)。しかし、民衆の心は自由主義(左傾=サンケイ)に流れてしまった。朝日はこちらの流れを保守反動だと言いたいようだが、国柄を無視する保守などありえないのだ。というわけで、気分はアメリカべったりの左翼の時代になっているのに、朝日は一人中国べったりの左翼をやっている。現在の自民党に国会の占領を許すような空気の中、馬鹿の一つ覚えの自虐史観でしか物を言えない新聞に力があるはずはないのである。というわけで今回中国は靖国問題を声高に叫ぶことの利害得失を考え、トーンを落としてくることが考えられる。もしも、朝日が一人で騒ぎ立てるようなことがあればかえって批判をしないかも知れない。

結論:これからどうなるかはまだまだ解らないが、靖国が外交カードとしての力を失っているのは間違いないようである。日本以外の国でそのことを口に出すと逆効果であることは韓国が身をもって知っているはずである(ヨーロッパで日本を批判していたら、それは日本の問題ではなくお宅の問題でしょう。いつまでもそんなこと言ってると笑われるよとドイツやフランスに言われたのである)。

木曜日, 10月 13, 2005

今すぐ憲法を停止せよ

 こんなに不甲斐ない国になってしまったのは、全て現行憲法の所為であるとしてしまおう。憲法の改正には長い時間を要するので、取りあえず現行憲法を停止し明治憲法で行けば良いのである(日本国憲法は旧憲法を改正したものであって、旧憲法は廃止された訳ではない)。ついでに批准はしたが実行されていない海軍軍備制限条約(日本の割り当てが少ないと騒いだが、日本は一度もそんなに大きな海軍力を持ったことは無かった)などを復活させて、アメリカの6割と言う大海軍を作ると言うのは如何なものだろう(そりゃやり過ぎだ)。立憲君主制をとる旧憲法は、曲解しない限り現行憲法と比較して大きな差は無い。

 よく天皇に全権があるようなことを言う人がいるが、内閣には輔弼(天皇の権能行使に対し,助言を与えること)という重要な機能があり、同時に天皇の権限は憲法に規定され、国会や内閣に対して拒否権も解散権も無かった。実際に昭和天皇は内閣が決めたことを拒否しなかった(良くないよという意見は何度か言っている)わけで、独裁国家の元首のように天皇が暴走するようなことは不可能なのである。実際に憲法を超えて天皇が意思を表明したのは、2.26事件の鎮圧と終戦の詔だけであったと言える(昭和天皇においてこれらは法的に逸脱した行為だった)。

 同様に軍部を暴走させた統帥権の問題も憲法に問題があったと言うよりも、社会のムードに問題があったと言うべきであろう。本来軍部をコントロールしなければいけない国会が、翼賛政治になってしまい自ら自由な発言を葬ってしまったことに問題があったのである。天皇は軍事クーデターに対しても厳しくあたり、決して軍部に対して甘かった訳ではない。

結論:明治憲法は非常に民主的な憲法であり、象徴ではないが実質的に天皇は最高権力者ではなかった。それなのに名称が帝国憲法であったために独裁者のための法律だと思っている馬鹿たれが多すぎる。現行憲法の様に空理空論が明文化されている憲法を後生大事にしている奴らは一度死んだ方が良いかも知れない。

イラクはドイツや日本ではない

 アメリカによるアラブの民主化計画は既に失敗に終わろうとしている。アラブの中でも比較的進歩的(独裁かどうかは別問題である)であったイラクでさえアメリカが望むような民主化が不可能であるとすれば、サウジやクェートが民主化することなど夢のまた夢なのである。

 何がいけなかったかと言えばイラクを戦前のドイツや日本と同様だと考えたことに尽きる(失敗することを承知で政府を動かした連中は始めから違うと解っていたはず)。戦前のドイツはナチスによる独裁政治であったが、これはイラクのそれとは全く違っていた(日本は独裁政治でさえなかった)。ナチスは民主化の行き着く先としてのファシズムであり、これは民主主義が立派にあったことの証なのである(国民がナチスを選んだのだから間違いない)。日本の場合は何かと言えば軍と言う官僚組織による統制政治であっただけで、独裁政治ではなかった。何故ならば民主主義者や自由主義者で死刑になった人間は一人もいなかった。拷問で死んだ連中は無政府主義者(テロリスト)だったのがいけなかったのである。

 天皇は専制君主ではなかった(誰よりも明治憲法を遵守する立憲君主であった)。以上のようにドイツや日本は、もともと民主的な国家であり国民の意思(馬鹿な国民だったかも知れないが)によって戦争へとなだれ込んでいったのである。その国で上手くいった方法を使ってアラブ諸国(アメリカはすぐにイスラムと言うが、イスラムが非民主的な訳ではない)を民主化しようと言う考えそのものが非論理的である。

結論:アメリカがいくらイラクを民主化しようと思っても、フセインに敵対していなかった多くの人々にとってフセイン時代の方が今よりは良かったと思える限り民主化は出来ないのである。人々は生活が安定していれば政治形態が民主的であるかどうかなんて全く関係ないのである。それが解らないのに他所の国に口出しするなど、ふざけるのもいい加減してもらいたいものだ。