月曜日, 5月 30, 2005

心の病気と思ったら第一章 <幻聴>

症状:本来聞こえるはずのない声や音が聞こえてくる。耳鳴りやメニエル病とは全く別物。
診断:幻聴かどうかは手のひらで耳を押さえて聞こえるかどうかで判断が出来る。耳管に虫が入った時にも耳を塞いで音がするが幻聴ではない(すぐ耳鼻咽喉科へ)。

病理的要因:聴覚野の脳細胞に腫瘍などが出来て神経を圧迫することにより音が聞こえる。是非脳神経外科をお訪ね下さい。良性腫瘍の場合には外科的処置で回復が可能です。

薬理的要因:有機溶剤(シンナーやトルエン、灯油などお好みで)や向精神薬(麻薬や覚せい剤)や脳神経の破壊(ようするに脳みそがとけちゃった状態)が原因の場合ほとんど重度の精神障害に見えます(いわゆる人間をやめた状態)。幻聴や幻覚が出るようになった場合、現在の医学では正常にはほぼもどりません。合掌。但し幻覚剤が原因の場合には服用を中止すれば改善します。

統合失調症(少し前までは精神分裂病、もっと昔は早年性痴呆と呼ばれていた):独り言の黙読(思考)が他人の声で聞こえてしまうために自分で考えていることだと認識できずに誰かに話しかけられていると勘違いしてしまう。現在は向精神薬の正しい服用で改善することが可能である。

パラノイア(妄想性人格障害):自分の思考が分裂(統合失調症に非常に近い)しているため、思考が神の声(或いは自分が神)となってしまう。統合失調症との大きな違いは首尾一貫しておかしいと言うところにある。統合失調症ではもっと支離滅裂である。原因が病理的要因である場合には治療可能であるが、そうでない場合には治療は困難なため一般には死ななきゃ直らないと言える(昔のキチガイに現在ぴったりあてはまるのはこの人達のことである)。合掌。

木曜日, 5月 26, 2005

価格.コムの顛末〜その後〜

 ついに価格コムは本当の墓穴を掘ってしまった。「過失はない」「地震のようなもの」と発表したのだ。そればかりか原因を公開せず、サーバシステムをLinuxベースに置き換えたことも公表しなかった。確かに自滅した訳ではなく攻撃されたのが原因で問題が発生したのだが、過失がないと言うならば”故意”だったと判断せざるを得ない。MicrosoftのWebサーバでさえ初期はLinuxで運用していたと言うくらい信頼の置けないシステムを使っていながら過失が無いとはどういう了見なのだろう。これでは、口うるさいネットユーザは黙ってはいないだろう。どんなに隠そうとしても今回の問題はいずれは公になってしまう。その時にきちんと説明できるようにだけはしておいた方がいいだろう。

結論:価格コムもソフトバンク並みにお客さんを大事にしていることがはっきりしたのである。

刑法と狂気

 人道主義と呼ばれるものに見られる破綻を最近つくづくと感じる。少年犯罪と精神障害者や人格障害者による犯罪が余りにも多く、また裁判結果に納得がいかない場合が多いからだ。ここでの一番の問題点は、人格障害(異常人格)なのに精神障害と鑑定されてしまうことがあまりに多いことだ。これも人権派と呼ばれる連中の横行が原因だ。現行刑法(現行と言ったって明治41年に作られている)では、心神喪失状態であった場合にはその罪を問われないと規定されている。そして常軌を逸した凶悪犯罪である場合必ずと言っていいほど精神鑑定が行われ、ここで精神障害(本当は人格障害なのに)とされ無罪放免になってしまう。池田小の宅間は人格障害とされたため本人の希望通り無事に死刑となったが、それでも弁護人は精神障害で控訴しようとしていた。弁護士よりも宅間の判断の方がまともだったと言う訳だ。

 ここに現在の司法の大きな問題が隠されている。本来刑法とは罪を憎んで人を憎まずの姿が健全であるはずなのに、量刑は人を見て判断を変えるようになってしまった。そのために弁護士はどうにかして病人にしようとする。病人ならば刑は軽くなり狂人ならば罪を問われない。これでは犯罪に巻き込まれた人間だけが割を食ってしまうではないか。やむにやまれぬ行為や過失に対して幅を持って減刑するというのはやり過ぎなのだ。ここは江戸時代の刑法に少しは学ぶべきではないだろうか。刑の確定に際して裁判官に裁量権を与える余地を無くすことから始めるべきだ。結局は精神障害者と診断された異常人格者が得をする形になってします。そして本来は何の害もない本当の精神障害者を犯罪者予備軍のような扱うことを慎むべきだ。

 最近多くなっている(単にマスコミが騒ぐようなっただけか)性犯罪者のような人格に問題のあるものは矯正することは出来ない(快楽が目的なので止められない)のだから終身刑にすればいいし、それで人をあやめたならば即効死刑で良い。

 結局は現在有効でなくなっている刑法を根本的に改定して量刑を明確に規定し直し、情状酌量などと言う法を超えた判断を裁判に持ち込ませずに罪に見合った刑で罰せられると言うのが正しい。

 江戸時代のように同じ死刑でも磔刑、死罪、下手人、獄門ときめ細かな配慮までは行えないかも知れないが、犯罪と刑罰が一対一の関係である方が望ましい。犯罪に違いを設けるとすれば、それが故意か過失かだけで十分だと思う。少年犯罪も罪を問えないのは6才以下くらいにしたらいいだろう。それ以上で物事の善し悪しが判断できないと言うのならば大人になったって判断できないに決まっている。

水曜日, 5月 25, 2005

カタカナ言葉の害悪

 今に始まったことではないが、社会風俗に関する問題をカタカナ言葉で表すために本質を間違った方向に持っていく傾向がますます高くなっている。最近やたらに目にする言葉がニートである。勉強するでもなく職に就く訳でもない人をさす言葉であるが、こんな言い方をするからブラブラする連中が出てくるのだ。

 日本語で言えば瘋癲のことじゃないか。もちろんフーテンと言う言い方もあったがこれではかなり軽い言い方になってしまう。第一ニートはそれよりもかっこいい感じがするところがなおいけない。

 もちろん、職に就きたいのに付けない人達もいるだろうが、それはニートではなく失業者である。どう考えても失業者よりはニートの方がよっぽどかっこうがいい。こんな状態をほったらかしておいてニートが減る訳がないのだ。というわけでこれからは瘋癲(ふうてん)とメディアは書くべきである。同様にフリーターは日雇い労務者と呼べば良い。

 積極的に働く気も無い奴を格好良く呼んで、一生懸命色を探している人を失業者と呼ぶのをやめてハンター呼んであげなければ浮かばれないではないか。私の言っていることはそんなに間違っているだろうか。

 人間かっこういいと少しでも感じられると安心してしまうものだ。マネーゲームだって銭転がしって呼べばいいし、バブルなんて言わないで泡銭と呼べば、どれくらい卑しいことかすぐに解っていいと思うのである。

火曜日, 5月 24, 2005

価格.コムの顛末

 価格コムがウイルスをばらまいて一週間ほど停止していたが、なんとWindowsのサーバで運用していたのだという。それもよりによってWebサーバにSIIを使っていたと言うのだから開いた口が塞がらない。今迄何も起きなかったのが不思議なくらいにお粗末な話である。今日から価格コムは再開されたはずだが、LinuxベースでApacheに変更した上での再登場なのである。パッチを当てるくらいではどうにもなりそうもないのでシステムそのものを別に構築し直したと言うことなのだ。

 個人の重要な情報を扱うのにIISを使うなど、どこのバカが支持したのかは知らないが身をもって恥をさらしたのである。

 せめてWeb Objectsのように、もう少しセキュアな環境で運用していれば今回のようなことはなかったのに。

木曜日, 5月 19, 2005

E3とゲーム機

 E3で、Microsoft、SONY、任天堂3社の次世代ゲーム機が相次いで発表された。MicrosoftとSONYは似たようなコンセプトであるためか、お互いを意識してチクチクとやり合っているようだが任天堂はゲーム機の王道を歩もうとしているかのようだ。Revolutionの凄いところはファミコンから連綿と築き上げたゲームの資産を全て取り込もうと言うことだろう。私自身はこの判断は正しいと思う。3社の中で一番問題なのはコストを無視したような取り組み方をしているSONYだろう。PSXの失敗から何も学んでいない。BDを使えば面白いゲームが出来ると考えているのならば明らかに的外れであるし、BDをデファクトにするための手段と考えているのならばゲームファンをバカにした振る舞いである。

 MicrosoftにしろSONYにしろゲームオタク用のマシーンとしての完成度はかなり高いが、それは一般のゲームファンを取り込む方法としては間違っている。ゲームしかしないで生きているようなバカを相手にしたマシーンは世の中では受け入れられないのである。商業的にどうなるかは結果が出るまで予測が付かないが、個人的な意見として言わせてもらえばゲームとはスペック比べではないということだ。

 そこが解っているのは任天堂だけだろう。Xbox360には、Final Fantasyが行くらしいが映画のFFがそうであったように自己満足なゲームになってしまうのではないだろうか。そんなものは、やりたくないのである。

土曜日, 5月 14, 2005

日本経済の問題点

 今の日本では経済的な繁栄をアメリカ型(英米型)の経済の発展のことだと勘違いしている連中が多い。その一例を挙げよう。60年代アメリカの中流階級以上の人達は非常に人に親切でフレンドリーであったが、当時の日本では貧乏人でもそれ以上に親切でフレンドリーだった。ツケにしてでも客人にはご馳走を振る舞う心の余裕が貧乏人にもあったし、ツケを許す店にも心の余裕があった。何故ならば、貧乏人でも信用出来るくらいの濃密な人間関係が当時存在したと言うことだ。欧米の中流階級と日本の下層階級が文化的に同程度であったと言うことである(本当かいな?)。

 その当時と比べれば恐らく現在の日本の方が明らかに経済的には恵まれているはずであるが、文化的(精神的が正しいか)には貧しくなってしまった。何故ならば、貧乏を許容出来なくなってしまったことだ。これはあからさまに貧乏人を差別すると言うことではない。自分だけは貧乏になりたくないと言う気持ちを皆が持っていると言うことだ。貧乏とはなんであろうか?先の例を見るように人間的劣っていることではないから、恐らくお金を持っていないことなのだろう。貧乏は悪い(だってなりたくないと言っているのだからそう考えているに違いない)、お金を持っていることが良いことになる。そう考えれば、お金のために悪いことをするのは悪いことではないという考え方に納得がいく。目的のためには手段は正当化されてしまうのだ。

 さて、こんな社会にしたのは誰なのだろう。恐らく戦後公職追放で社長達がいなくなったときに突然経営者に祭り上げられた中間管理者達が心の準備もなく偉くなってしまったのがいけないのであろう(そこには帝王学はなかった)。立派だからそうなった訳ではないのになったとたんに自分を偉いと人は勘違いしてしまうものである。そういった連中と国費留学させた学生を帰国後重要なポストにつけることによって日本の拝金主義はまん延していったのである。

結論:お金のために悪いことをするのはちっとも悪いことではない。心よ余裕はお金の余裕よりは価値の低いものである。そんな日本人に私は早くなりたい。

日本人の問題点

 我々の問題点は何であろうか?それは未だに負け犬根性が抜けないことではないだろうか。先の大戦で日本が連合国に負けて最大の理由は軍事力に劣っていたことであろう。勿論、参謀本部や軍令部と言った空理空論で作成を立てる連中の言いなりになったのも大きいかも知れないが、最大の原因は物量の差だったのである。ただそれだけなのに日本の全てが劣っていたのが敗因だったと信じ込まされてきた。

 日本がロシアを破った当時アメリカもヨーロッパから見れば日本同様に劣等国扱いであった。戦後のアメリカの洗脳が上手かったのかもしれないが、日本が既に明治なり刀を捨てて文化的になっていた頃に、かの国では西部劇さながらの状態であったのだ。もちろんその当時でも東海岸は文化的に進んでいたが全米がそうだった訳ではないのだ。

 自分たちよりも劣っている高を括って考えていた日本がロシアを破ったときに彼らの胸を駆け抜けたのが先を越されたと言う焦りだったのである。まさか日本が勝つとは思わないから安心して戦費を出したのに日本にしてやられたのである。ここから日本の仮想敵国化が始まった。

 結局日本はアメリカに経済力(様は物量)で負けただけなのだ。だから日本はアメリカよりも全てが劣っていると考える必要など無かったのである。文化に原因がなかったことをあったと信じ込まされたことから日本の戦後の文化的な衰退が始まってしまったことにそろそろ気付かなくてはいけない。

 幕府は薩長に破れたからと言って自分たちが劣っているなどとは考えていなかったはずだ。現に維新後の政府を多くの旧幕臣が支えていた。またそれによって文化の連綿たる流れの中にある知恵を絶やさないことを新政府も知っていたのである。それが維新以降の日本の発展の原動力になった。

 歴史にもしもの仮定は禁物かも知れないが、太平洋戦争当時の日本の経済力がアメリカと同程度であったならば、日本が負けることは決してなかったであろう(裏で手を貸していたフリーメーソンが軍上層部にいたので必ず負けたと言う都市伝説もあるが)。そして、本当に大東亜共栄圏を完成させて世界平和のために貢献していたはずである。

 現在も問題にされるような虐殺問題(バターン)は、恐らく発生しなかったはずである。何故ならばあの時に日本兵の多くも飢餓とマラリアに倒れているのだ。日本兵は腹いっぱい食べて捕虜だけが死んだ訳ではないのだ。日本軍はあんなに大量の捕虜が出るとは考えられず、このままでは全ての捕虜が餓死してしまう恐れがあったために、兵站に比較的余裕のあるバターンまで捕虜を移送する必要があったのである。それを虐殺と呼ぶなら、撤退時にあれだけ多くの自国民を見捨てていった連合国側に半分以上の責任を取ってもらいたい。太平洋戦争が始まった当時日本は燃料さえなく木炭で車を走らせていたのだ。チューインガムを噛みながら生活をしていた連中に文句を言われる筋合いではない。

結論:日本は文化で欧米諸国に劣っている訳ではないし、経済も日本の形が欧米に劣っている訳ではない。もっと自信を持ってアメリカに対して自国の意見を言うべきである。それと、次の戦争では多くの捕虜を抱えることがないよう戦闘の中で皆殺しにしましょう。それが、欧米のやり方です。それがいやならば、自国の全兵士を餓死させても捕虜においしいものをたらふく食べさせましょう。これがお持て成しの心です。あなたなら、どちらを選びますか?

日曜日, 5月 08, 2005

山本七平の空気とは

 以前、山本七平について触れたがどう言ったことかが判りずらかったかも知れない。日本以外でもムードに流されて国を誤ることが無い訳ではないので、日本特有と言うには無理があるかも知れない。しかし、この戦いで命を失った英霊の志を無にするなと言った形で戦況を無視することは文明国では珍しいのである。もしかしたら、日本は考えているほど文明国ではなかったのだろうか。

 空気で動いている国かどうかを判断するには、「バスに乗り遅れるな」などという訳の判らないことをいうかどうかを見ていればいい。そんなことを言われたら「後から電車で行きます」と答えよう。でも、電車も最近は危険だからな。

結論;バスに乗らなければいけない理由なんてどこにもないのである。

火曜日, 5月 03, 2005

あなた戦争出来ますか?

 米軍から後方支援の一環として弾薬の備蓄をして欲しいとの依頼があったようである。相当の予算が必要となるだろうが、ここは是非日本のためにもたっぷり備蓄して欲しいものである。

 何でそんなことを言うかと言うと、自衛隊は世界でも有数の最新の兵器を持つ軍隊であるが(アメリカは格が違うが)、こと弾薬に関してはお寒い限りだからである。恐らく自衛隊の持つ弾薬は一週間もしたらば尽きてしまうレベルのはずだ。

 石油の備蓄は相当あるのでこちらがすぐに足りなくなることはなさそうだが、玉に関してはすぐに打ち止めになってしまう。これでは、いくら戦争をしたくても出来ないのが実情なのだ。

 戦争になった当初は凄まじい快進撃が可能であるが、すぐに玉が切れてしまい逃げ回るだけの軍隊に成り下がってしまうだろう。これでは、戦争にはならない。もちろん闘う相手が北朝鮮ならば、あちらの弾薬も高が知れているのであっという間に勝つことが出来るが、質はともかく物量に物を言わせる中国などが、もし日本に牙をむいてきたらもう勝ち目はない。

 悪いことは言わないから弾薬くらいふんだんに用意しておこう。そうしなきゃ、国を守ることさえ出来ないのだ。