私は比較的信長好きなのだが、最近ちょっと気になることがある。天下統一の道筋を最初につけたのが信長だと言われているが本当にそうなのだろうかという疑問だ。信長の配下には多くの優秀な武将がいたので天下統一まであと一歩のところまでいったわけだが、それは信長の戦略に部下が従ったからだというのが定説になっている。しかし、疑い深くなっている私にはちょっと引っかかるのだ。それは、もしかしたら信長は単なる神輿だったのじゃないかという疑問だ。
話はもとへ戻るが、信長の躍進のキーとなるのが1550年代だ。この時信長が家督を継承したが、単なる清洲織田家を継いだだけのただの奇矯な男にすぎなかった。ところが50年代後半になると一気に尾張統一、桶狭間、美濃攻略と快進撃を始める。後に天下を統一する秀吉が織田に加わったのが1550年代の半ばだというのは...
勿体ぶらずに書いてしまおう。この時に織田の家臣団に新たな勢力が加わったのだ。それは秀吉を頂点とする蜂須賀などの山の民が加わったということだ。彼らが加わった頃から織田の譜代の家臣の中で信長派であった人達が力を失い、彼らに取って代わっていったとみられるのだ。
彼らのルーツは何故か自然に消えてしまった秦氏に連なるとも言われるたたら(製鉄)技術者になる。忍者と言われた集団も同じなのだが、彼らは基本的に律令外の存在。幕府など新しい政権が登場する時に、その姿を露にする。つまり現実主義者であった信長は彼らの持つ戦術を利用した訳であるが、彼らは信長というカリスマを使って自分たちの野望を実現させたのである。
そしてそれが可能になった時、信長の役目は終わった訳である。
結論:信長がいなかったとは思わないが、信長の事績と言われるものの影に常に山の民の存在があった事は間違いない。何故なら彼らが加わる前の信長に何の実績もないからである。
金曜日, 12月 29, 2006
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