久しく書いていなかったこのシリーズ。鎖国は無かったとか、聖徳太子はいなかったとかというのが普通に語られ、どういう訳かいつの間にやら世の中の方が変わりつつあるようである。久し振りに日本の古代史に関する本を読んでいて非常に大切な事にハタと気がついた。今回はその辺りを書いて見たいと思う。
大化の改新
定説:四代に渡って政権を掌握した蘇我氏による専横に憤り、天皇家へ権力を取り戻す為に行ったクーデータと、公地公民、班田収受、国群制度などの一連の改革ををまとめて大化の改新と言う。
事実1:書記にも書かれている事だが、クーデターに成功していながら中大兄皇子は、すぐに天皇にもなれず都を追われるように九州へ下っている。滅ぼしたはずの蘇我氏を中心とする大和の豪族に対抗出来る勢力を持っていなかったのは明白。
事実2:百済を助ける為に白村江で戦ったとされるが、中大兄皇子と百済王子扶余豐璋の動きが連動している。何故か中大兄皇子が行方不明の時期に百済王子扶余豐璋の姿が表に出てくる。同一人物の可能性がある。
事実3:中大兄皇子と中臣鎌足に殺されたはずの蘇我入鹿は”韓人に殺された”と記されている。
事実4:大化の改新を行ったはずの中臣鎌足、中大兄皇子は政権の中枢にはいなかった。特に中臣鎌足が何をしていたのかは記述されていない。冠位を貰った事だけは記述されているが。
推論:大化の改新はテロではあったが実質的に失敗。蘇我路線の改革が粛々と進められた(大化の改新の政策は蘇我氏発案)。何故ならば中大兄皇子は皇太子になったされるのに中央政府から追い出され天皇になるのは死ぬ5年前。孝徳天皇は孤立して憤死したとなっているが恐らく祟り(蘇我の)で亡くなったと捉えられ張本人の中大兄皇子は都にいられなかったに違いない。天智天皇の死に場所が特定されないなど明らかに祟られる側(悪事を働いた側)の死に方である。天智の子である弘文を滅ぼしている(壬申の乱)誰も祟られていない。天皇家の権力の源泉は祟る存在だったことである(呪術者)。大事な点は、祟る方が正義で祟られる方には正義はないという当時の認識。何をしたかを見るよりもその人物の死に方と、死後に何が起きているかを見れば事実が明らかになるのだ。
結論:日本書紀は天皇の正当性を示す為に作られた文書だと考えてきたから、事実を見落としていたのだ。日本書紀が藤原氏の正当性を担保する為に作られた文書だと分かれば謎は解けるのだ。何故みんな今迄一番肝心な事に気付かなかったのだろう。日本書紀とは天皇家の歴史をダシにして藤原家(それも不比等以降)の権威付けの為に作られた書物だったのだ。1回で書き切れるような内容ではないので、今後も暫く書き続けたいと思う。
月曜日, 6月 02, 2008
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2 件のコメント:
楽しみにしております。
期待外れにならないように頑張ります。
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