月曜日, 3月 27, 2006

戦後日本の方向を決めたのは自己顕示欲だった

 戦中は軍部の官僚主導に日本は統制社会であったが、戦後の日本を動かしたのは自己顕示欲の強い二人のリーダーであった。そしてこの二人が極東軍事裁判(東京裁判。裁判などと呼べる代物ではなかった)の結果を左右したと言っても良いだろう。一人はアメリカのマッカサーであり、もう一人は吉田茂だ。どちらも自分を売り込むことに掛けては天下一品と言える輩(決して褒められた人物ではない)であるが、実はそのために吉田茂などは戦犯にならずに済んだのである。どういうことかと言えば、政治好きなため早くから大臣になりたがっていた吉田茂は開戦派ではなかったが、その言動は軍部をバックにした恫喝で外交を進めようというタカ派であった。そのため外務省での信頼は低く戦中に外務大臣にも総理にもなれなかったのだが、そのため広田弘毅(吉田茂の同期)のように東京裁判で死刑宣告されることも無かったのである。

 一方の、マッカサーは日本軍によってフィリピンを追われる時にさえ、パフォーマンス(”I shall return”と発言)を行うほど自尊心の強い男(臆病の裏返しだ)だったが、部下を見捨てて敵前逃亡(その為にバターン死の行進の悲劇を生んだのである)したチキンであった。再びフィリピンに戻った時(レイテ上陸)には、得意のポーズを新聞にとらせてまさに嫌な奴(目立ちたがりや)の面目躍如だった。フィリピンを攻略した理由も自分の親の代から続く利権を確保する為だったと言うのが本当の理由らしく、個人的な復讐を東京裁判によって行ったと見るべきだろう。

 この二人が手を結んだのであるから、自分たちの権力を誇示する為には東京裁判は派手(死刑囚を沢山出す)でなければいけなかった。吉田は極力東京裁判にタッチせず(平和外交を目指した広田を積極的に助けなかった)、結果的にマッカサーのパフォーマンスに協力したのである。その他にもフィリピンに於ては、陸軍の中では一番まともであった山下奉文将軍を全くの無実にも関わらず死刑にしている。

結論:吉田もマッカサーも自身の権力を得る為には何でもする卑怯者であった。どちらも自己顕示欲を満足させる為に戦後の日本統治を利用したのである。ようするに占領下の日本はエリート気取りの英国かぶれと、マッチョ気取りのマザコンに統治されていたのである。

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