韓国では当たり前にキリスト教が信仰されているのに何故日本では広がらないのだろうか。この問題は難しそうで実に単純な話なのである。日本人が無宗教だからと言うのでは答えにも何にもなっていない。その辺りを今回は書いてみたい。
当初キリスト教はどのような扱いを受けたかを考えると明白だが、スタンダードな宗教では無かった。つまり、迫害からスタートしたと言うことだ。これは国土を失った後のユダヤ教と全く同様である。要するに奴隷(被支配者)の宗教だったのだ。だから今でもその根底には被害者意識が隠されている。常に占領されていた国の人間にとってキリスト教は自分を映す鏡なのだが、少なくとも大和朝廷と呼ばれるものが出来上がった時以降、日本は支配者になったことはあるが、支配されたことがなかった(戦後の60年は別だが)ために、国を失ったという経験がないため、メンタリティーとして被支配者に響く宗教の意味を理解できないのである。迫害されたことの無い人間にとってキリスト教の意味はちっとも滲みてこないのだ。
日本に対するキリスト教の布教活動は大きく2回行われた(戦国時代と終戦後)が、失敗に終わった理由はそこにあったのである。正直な話、イグナチオ教会に通った事があるが、そこで教えられていることは絵空事ばかり。実感できないことを信じさせることなんて到底不可能なのである。
結論:一神教が受け入れられないのは現世に神など必要としない(奴隷では無い)からなのである。このまま格差社会が広がるようならば一神教が入り込む余地があるかも知れないが、それがキリスト教やユダヤ教のせいだと分かるようにさえすれば、エホバの出る幕は無いのである。
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2 件のコメント:
なるほど・・・奴隷のための宗教というと説得力ありますね。
宗教論には疎いですが、拠り所があると楽ですよね、苦しくても言い訳できますから。もともと生真面目でこつこつやる日本人の気質には合わない気もします。
もともと日曜が休みなのも働くことを罪悪だと考えている(つまり奴隷)からであって、働くことを罪悪とは考えない日本人にそぐわないのである。本来日本人にとっての休日とはプラスαのご褒美であって、働いた結果で成果をえるだけで十分だったのである。本来1週間に1度も休まないと死んじゃうことなんてないのだ。週休が普通になったのは単なる既得権益の保持に過ぎないのである。
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