月曜日, 2月 19, 2007

幕末人間模様

 江戸城無血開城の話などを前に書いてみたが、その辺の話が書かれた本を読んだので参考までに...

幕府:官僚主義が長く続き、戦闘集団としての役割を果たせない状態になった。その為文武を怠らない会津藩に京都の守護を頼まなければいけない情けない状態になってしまった。維新後は蒙昧な組織とされていたが、国際情勢に関しては諸藩とは比べ物にならないレベルだった。その辺りを理解していたのが、井伊直弼だったが、それこそ蒙昧な水戸藩士に惨殺されてしまい結果的に幕府が崩壊することになってしまった。

孝明天皇:公武一和(公武合体)を目指す。あまりにも攘夷にこだわった為開国派に殺される(言い切りは行き過ぎだと思うぞ)。少なくとも殺される間際には幕府による開国を評価し、開国と公武合体ににより富国強兵策を取る心積もりであった。要するに薩長政権など認める気はさらさら無かったのである。現に攘夷派の公家を蟄居にしている。だから殺されたので...弑逆後(まだ言うか)佐幕派の有力公家は全て実権を下級貴族に奪われてしまった。

明治天皇:わずか15歳で、既に京都守護職などが機能しなくなった京都で岩倉具視などの討幕派に担がれ(人質とも言う)天皇となる。替え玉説などもあるが、どちらにせよ自分の考えで政権を奪取したとは到底考えられない。身柄を押えられた方の為に勅許を出すしか生きる術は無かったと言える。指導力を発揮し始めたのは明治中期に入ってからだといえるだろう。

徳川慶喜:家康の再来と言われるが、その現実主義が災いして大局を見る能力を欠く。言い出したことを最後まで全うしないのは、はた迷惑な話だ。佐幕として慶喜の為に戦った会津藩や新撰組を、見殺しにして江戸へ帰ってしまった計算高さは許されるものでは無いだろう。

勝海舟:
策士。寝技は得意だが、戦わずして勝てると言う気持ちが強過ぎて戦う時に戦わなかった。幕府崩壊の責任の一端を握っている。結果的に徳川家を守る働きは大きかったが理想と考えていた共和制を実施する力は無かった。まさに策士策に溺れるだ。

榎本武揚:当時東アジア最強の海軍を指揮しながら、江戸と奥羽越列藩同盟を天秤に掛けると言う戦略上の失敗から、薩長による武断政治を助長してしまった。

奥羽越列藩同盟:維新後は単純に佐幕派(朝敵)という汚名を注がれているが、実際は既に幕府に最高の意志は無く、薩長による藩閥政治の横暴に対し共和制による民主国家を目指していたと考えられる。少なくとも武力だけで国を押えようとする薩長とは一線を画する積もりであった。

新撰組:今はごろつき集団だったと言う話しはされなくなったが、実際に京都の治安維持の為に活動した皇宮警察のような役目を負っていた。それもこれも幕府の武士に朝廷の治安維持を行うような能力が無くなってしまったためなのだ。薩摩や長州の暴虐行為を止めさせるには武力しかなかったのである。

結論:強力な海軍を持っていながらうまく動かすことが出来ず、策略に優れながら(龍馬に開国を引き込んだのは勝海舟)お家の大事(徳川家を守る)を優先し、対薩長で戦う味方がありながら見殺しにする。能力がありながらぽっと出の勝海舟には幕府全体を動かす実力は無かったのに、それに頼らざる負えなかった。それが明治維新の大きな理由だったのである。

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