月曜日, 11月 06, 2006

差別と区別

 とかくサヨクは差別という言葉に敏感(恐らくあいつらは被差別部落出身者か何か何だろう)で、それがいき過ぎたために何でも同じなら良い(頭がいかれているのでこれを平等だと勘違いしている)という極論にまで突っ走ってしまい、結局逆差別を作り出して世の中を悪くしてしまったのだ。

 まず、連中は差別という言葉の定義も知らずに(要するバカは怖い物知らずだという見本)区別と差別を一緒くたに扱っている。合理的な理由をもとに区別をすることは差別とは呼ばないのに、それさえも差別だと言い張って結局逆差別(悪平等は差別以外の何物でもない)を生み出しているのにそのことには頬被りをしているのである。穢れ意識や生い立ちで差別をすることは私だって認めないが、だからといって能力の差を認めないことはおかしいと思う。しかし戦後の制度は、この部分さえも差別であるとして一切の例外を建前上は認めないことにしたのである。

 それならばそれで、試験によって生徒を選別することもやめるというのならば納得もいくが、特進や飛び級を認めないくせに、受験の競争を認めるのはまさに御都合主義以外の何物でもない。もちろん民主国家であるから、本人の希望を無視して飛び級や特進をする必要はないが、希望をすれば戦前と同じようなエリート教育を施すのも国の責任だろうと思う。

結論:差別というのは理由もなしに差を付けることであり、平等とは理由もなしに被差別対象者の権利を増長することではない。そしてエリートとは自己の利権を第一に考える人間のことではなく選良のことをさす。選良の犯罪は一般人とは重みが違う(責任が重いということだ)というシステムを用意することでエリートを作り出すことは決して差別を行うことではないのである。少なくとも今の社会意識でエリート官僚など出てくる訳はないのである。

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