月曜日, 11月 27, 2006

真実と事実 〜第十三条〜

 前回はノモンハンだったわけだが、今回も日本の軍隊に関係した話題を書いてみたい。

統帥権
定説:統帥権とは陸海軍を一般国務から独立した天皇(大元帥として)の大権とし、その発動には陸軍参謀総長・海軍軍令部総長が参与(輔弼)する。陸海軍を司法・行政・立法から独立した第四の権力とした軍隊に関する最高指揮権であり、それを楯にして軍部は暴走し国を戦争へと駆り立てた。実際に戦前の日本はまさにその通りの軍主導体制になっていた。それを止めることは天皇にしか出来なかった(天皇の戦争責任)。
事実1:軍隊の指揮権は天皇にあったが編成権(軍を編成する為の予算の配分)は内閣と国会にあった(国会の承認をもとに国務大臣が天皇を輔弼)
事実2:国会の承認無しに天皇が指揮権を行使することは基本的になかった(天皇が越権行為を行なったのは、二・二六事件の鎮圧命令と、終戦の決断くらいである)。
事実3:統帥権を別立てにした理由は、明治政府(反幕府軍事政権)が、議会や政府に軍の指揮権を持たせると、世論の意向によっては再クーデター(幕府再興)が可能になると恐れていたため、三権と別立てにしたのである。
事実4:編成権を持たない軍は政府から予算を取れなければ戦争は行なえなかった。だからこそ、国会を翼賛体制にして予算をとれるようにしたのである。戦争には非常に金がかかるのである。
事実5:国民(国会や内閣)が支持しない限り天皇には統帥権行使の意志はなかった。
私の視点:大権には、国務(天皇として)と軍務(大元帥として)の二つが存在した。実際に天皇が統帥権に関わる決断をするときには軍服を着用し、国務に関わる場合には平服で御前会議に参加したと言うことである。二・二六の時には軍服で指示を出し、終戦の時には平服であった。つまり終戦の決断は大元帥としてではなく天皇として行なったということである。それと戦前は軍部による独断専行のように一般に考えられているが、大政翼賛体制に入るまでは予算そのものを握っている国務に逆らって軍事行動を行なうことは不可能だった。戦争が拡大した理由は、臨時軍事費を国会が認めた所為なのである。予算を付けなければそもそも戦争の準備など出来なかったのだ。今だって法律上で核武装を認めたって、一銭も予算を割り当てなければ核兵器を作ることはできない(まさに架空兵器だ)。実は軍隊が一番恐れることは軍事予算を削減されることなのである。

結論:日本が戦争に負けた本当の理由は、軍事予算を認めたことと軍事予算を出し渋ったことである。どういうことかといえば、始めから予算を認めなければ戦争をすることが出来ないので戦争に負けることはないと言うことと、十分な予算を付けなかった為にきちんとした作戦を立てられず(明確な戦略も持っていないのに作戦と言うのもおかしな話だが)短期間で決着を付けることが出来なかったということだ。ノモンハンにしてもやるであれば、ソ連軍と同規模の大軍を編成して一気に叩かなければ意味がない。そこで得られる教訓は「10分の1でも互角に戦える」ではなく、「同数ならば圧勝できる」でなければいけない。日本が第二次大戦に負けた本当の理由ははチビチビとしか金を出さなかった事に尽きる。十分な軍備を与えずに作戦を強行するから精神主義で私物命令を出す参謀(辻正信がその代表)を許してしまい、戦死者の大半が、餓死・病気・自決(切り込み突撃)という戦闘以外のほうが多いと言う歪な戦争にしてしまったのだ。戦争をしたくなければ予算(臨軍費)は出さない。出すのならば十分に出すのが勝つ為の鉄則なのだ。先の大戦を100年戦争などと名付けてチビチビ金を使おうとしたようだが、考えてみて欲しい100年も続く国が多くないことを(日本の仮想敵国だったソ連は既に無いし、中華民国は中国を追い出された)...

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