大化の改新を行った中大兄皇子は後に天智天皇となり、その後を天武天皇がついだと日本書紀に書かれているが、これが正しいとは言えないような状況になってきている。穿った見方をすれば日本書紀は聖武天皇に都合の良い形に脚色された”とんでも本”と言えるのだ。
私が見た資料が飛んでもないと言う可能性の方が高いと言っておきたいが、強ちそうとも言えない雰囲気がぷんぷんと臭っているのである。言われているものの中に、天武天皇は弟となっているが年令が天智よりも上だと言うのがある。そして、天武は天皇家と血の繋がりがないという話もある。天智の妃であった藤原氏の流れとは姻せき関係があるようだが、天皇の血は流れていない。だからこそ、天武は天皇家の正統の血筋を絶やそうとし、その子孫である天武は自分たちが正統であるとするため日本書紀が必要だったのである。それもこれも、傍流に過ぎなかった中臣家を藤原家として天皇家と一つにしようと言う政略があったからである。さてその政略とは。
聖徳太子毒殺:蘇我にコントロール出来ない聖徳太子を蝦夷が毒殺(622年)
山背大兄王虐殺:聖徳太子の一族を入鹿が中臣鎌足の策謀で殺害。ここで倭の血は絶える(643年)
大化の改新:蘇我入鹿、蝦夷を山背大兄殺害を理由に中大兄皇子(百済王族)、中臣鎌足が殺害(645年)
壬申の乱:天智が金多遂(新羅の武烈王の弟)に拉致殺害された後、その子を殺害し天武天皇となる。
結論:このように朝鮮系の王族が日本の皇室を実質的に乗っ取ったのが、聖徳太子以降天武系に掛けての時代であるが、聖武は子宝に恵まれず最終的に天武系はすぐに絶えてしまい天智系に戻っている。聖武は仏教を信じたがそれは自分の台になるまでに繰り返された謀略の犠牲者の祟りを恐れたからである。法隆寺が作られた本当の理由は、自分たちが絶えさせてしまった日本の王族の祟りを恐れたからなのである。但しテストでこんな事を書くと絶対バツにされるので良い子は書かないように。
月曜日, 4月 24, 2006
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