世の中には、物事の判断を行う時に大きく分けて合理と情理がある。他に非合理と言うのもあるが、これはお話し以前なので取り上げても意味がないだろう。私見であるが、合理とは理性で判断する事なので間違いないように思えるが、これがいつでも正しいわけではないと考えている。つまり場合によっては合理は非常に非合理であり、情理に任せる方が正しい結果を得られると私は考えているわけだ。
西洋では往々にして合理が重視され、日本では情理が重視されている。これはどちらが優れているかと言うレベルの話ではなく、不安定な社会では合理が都合が良く安定している社会では情理の方が勝っていると言う事だけなのである。つまり日本人が合理的な判断をしなくなった大きな原因は名がいあうだ平和な状況が続いてきたからだと考えているのだ。他国から侵略された事がない日本ではどんな状況になっても基本的に話し合いで丸く収める収監が付いてしまった。それに引き換え西洋諸国は、植民地を見れば解るように弱肉強食で常に征服される危険から話し合いが無力な事を身をもって知っているわけである。
そんな状態で日本は明治維新を向かえてしまい、民主国家のお題目が理想を言っているのではなく現実をさしていると勘違いしてしまった(それくらい合理的な目を持つ人が少なかったのだ)。一部の人はそれが解っていたので、合理的に判断して戦ってはいけない国を判断していたわけである。つまり戦争をする時は、合理的な判断以外は禁物なのだ。それさえ解っていれば日本はアメリカと言うサタンが作った国とは絶対にあんな形で戦ったりしなかったし、中国と言う非合理な国に攻め入る事もしなかっただろう。
結論:戦争は合理的な判断以外はしてはいけない。そして平和時には情理を重視しなければいけない。今の小泉内閣は情理を軽視して国を傾けようとしているが、戦争になったら情理一辺倒でまた国を誤らせるつもりなのだろう。戦争になっていない今こそ情理を尽くしてアジアの安定を考えなければいけないのである。今回はまるでサヨクのような意見だったな。まあ日本のサヨクは保守以上に合理的考え方が出来ない連中だけどね。
月曜日, 4月 10, 2006
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