月曜日, 4月 17, 2006

臓器は修理部品ではない

 産経新聞はどうしても臓器移植を進めたいらしい。この問題を科学的な問題として矮小化したいらしいが、それは見当外れだと言ったら笑われるのだろうか。実は私は全く宗教的なものは信じていない。だからと言って命を軽視いてはいない。死を特別なものと考えれば考えるほど、死んだ人の使える臓器を無駄にしてしまうのは”勿体ない”という考え方(そういう気持ちがあるから臓器移植がOKになるのだと私は考えている)には賛成出来ないのである。人工臓器を使うならまだ解るが、臓器は部品ではないのだ。

 実は今はまだ、移植可能な臓器が腎臓や心臓であるから、問題の本質が見えてこないが、もし脳が移植可能(技術的に絶対無理だとは考えられない)になったらと想像してもらいたい。ここに二人の人物がいるとする。一人は脳以外の身体が修復不能になってしまった。もう一人は脳だけが死んでしまった(脳死だ)。そこでどちらかを生かすと言う事になった場合。その人はどちらになるかだ。無事脳を移植され(脳に体を移植したとも言える)た、その人は誰なのだろう。記憶は脳の持ち主のものであるが、体は亡くなった人そのものだ。臓器移植の行き着く先にはこう言った不気味な世界が口を開いて待っているのである。オカルトに思われるかもしれないが、私は身体記憶が存在するのではないかと疑っている。

結論:臓器移植によって救われる命が少なくない事は理解出来る。しかしそこに生命の尊厳が無くなれば(いつかは無くなるのだ)、パーツ用の人体生成にまで進んでしまう。医者は人を助けるために臓器移植を進めようとしているなどと考えるのナイーブすぎる。ドナーが増えれば単価は低くなるが、その代わりに客数が増やす努力をする。あなたは、そういう社会が来るのを望んでいるのだろうか。

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