天皇の諡号の中で崇の字を使っている天皇は祟り神(怨霊)になるような死に方をした天皇に対して祟りに似た崇めるを充てることに決めているようである。岩倉具視らに弑逆されたという噂もある孝明天皇は流石に時代が違う(亡くなってから諡号を送る時代ではなかった)ことと、その字を使う事によって弑逆を認める事になってしまうためにそうしなかったのだろう。そしてもう一つ、祟り神にまでならないが良い死に方をしなかった天皇には徳の字を使ったらしい。よって崇徳天皇は歴代の天皇の中でも一番恐れられた祟り神だったのである。
崇の付く天皇(諡号)
23代 崇峻天皇:臣下により歴史上初めて殺された天皇。これに聖徳太子も絡んでいたという説もあるが、定説にはなっていない。
75代 崇徳天皇:クーデター(保元の乱)に失敗し、後白河上皇によって流刑となる。死後怨霊になったと言われる。讃岐の地で憤死するが自ら魔王となったと言われている。その祟りで源平の騒乱や、清盛の死などが起きたと考えれ、慰撫のために官幣大社として白峯神宮を創建した。
追尊 崇道天皇(早良親王):桓武天皇の弟だったが、暗殺事件に連座して淡路島に配流される途中に憤死。その祟りを恐れて平安京へ遷都した事は有名。怨霊となった早良親王の祟りを静めるため崇道天皇の追尊を行ったのである。
徳の付く天皇(諡号)
36代 孝徳天皇:皇太子(中大兄皇子)以下(皇后、皇祖母尊、臣下の大半)が天皇を残して倭京へ移ってしまい、失意のうちに病死してしまう。
81代 安徳天皇:源平の戦いに巻き込まれ8歳で崩御(祖母に抱かれて壇ノ浦で入水)
84代 順徳天皇:承久の乱を引き起こし佐渡に配流になって崩御
結論:クーデターなどで暗殺された天皇には”崇”の字を使い、不幸な死に方をした天皇には、”徳”の字を使い霊を静めようとしたと考えられている。それほど怨霊を恐れていたというのだ。
火曜日, 4月 18, 2006
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