水曜日, 2月 13, 2008

良い事と当たり前の事

 世の中には慈善事業や慈善奉仕と言うものがある。とりわけキリスト教の国ではこう言うのが好きなのだが、キリスト教徒の行っているのは慈善ではなく偽善だと、私は常々考えている。何故ならばキリスト教徒(他の宗教でもそうなのだが)は、慈善事業や慈善奉仕を良い事だと定義しているからだ。良い事と言うのは誰かに評価された結果を示す。恐らくそれは神様にそう評化されて死んだ暁には天国へ行けると言う意味で良い事なのだろう。

 神様や他者が良いと判断してくれないならば成り立たない行為だとすれば、それは自分の為に行っているだけであって相手の為にやっている訳ではないという結論に至る。つまり自分の評価を高める為に行っているのだから偽善行為なのだ。アラブには喜捨と言う制度がある。これは良い悪いではなく富めるものはそれをしなければいけないと言うシステムであって慈善行為ではなく義務である。つまり、それをするのが当たり前であってしたからといって誰からも評価されはしない。しなければ批判されるだけである。

 イスラムのように貧者救済が義務化されているのがベストだとは言わないが、キリスト教徒のように良い事との評価を期待するよりは文化度は高いと思う(アメリカ人の自分たちのやっている民主主義が一番正しいなどと言う押し付けがましさは同じものがルーツになっているはずである)。

結論:貧者救済を良い事などと考えてやっている限り、それはただの偽善である。人助けをして良い事をしたな〜と考えている限り、ちっとも良い事はしていないのである。勿論、私はただの極悪人である。

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