木曜日, 5月 18, 2006

歴史再考〜維新編〜

 引き続き歴史である。明治維新といえば文明開化(それじゃ江戸時代には文明がなかったのか?)と考えがちだが、それじゃ勝てば官軍だ(要するに自画自賛に阿ることになってしまう)。それでは、ここで言いたい事は何だ言う話になるが、明治維新とは倒幕成功ではなく、大政奉還であったと言いたいのである。つまり薩長が勝ったわけではなく、本当に勝ったのは少なくとも最初の内は幕府だったと言いたいのだ。

 真直ぐが取り柄の方々(要するにバカだと言っているのだ)は、表面的な事象を見て徳川幕府が破れ、天皇側が勝ったと思われているようだが、実際には徳川慶喜になった段階で幕府は公武合体を目指していた事は明らかである。元々慶喜は水戸家の出身。水戸家とは天下分目の戦いになった時に皇室側に立つ事を義務づけられていた徳川の一族だったのである。つまり皇室は公武合体を目指す孝明天皇の時に将軍は慶喜になっていたわけである。つまりいつでも幕府を返す覚悟が出来ていた布陣だったのだ。

 但し、ここに障害があった。それは貧乏公卿(岩倉などの穀潰し)と薩長を始めとする反幕府勢力だ。彼らは平穏無事に天下を返されたのでは、その隙に割り込もうと言う算段が立たなくなる事を一番恐れていた。取りあえず幕府を倒して自分たちの天下にしたかったわけである。ところが幕府側は、内戦によって国力が落ちる事の方が幕府を解体する事よりも大きな問題と考えていた(幕府にはノーブレス・オブリージュがあったということだ)。

 それに引き換え公卿達は天下が取り戻せるならば何でもやると言う覚悟だった(よって邪魔な孝明天皇を弑逆)。こうして倒幕に肩入れする後の明治天皇を旗頭にして倒幕へと向かったわけであるが、さすがは天下の徳川幕府。京都までは官軍を推し進めても問題がなかったが、東海道を東へ向かうほどに情勢は官軍に不利になっていった(伊達や酔狂で江戸周辺に譜代大名を置いたわけではない)。駿河湾には勝海舟率いる海軍の軍艦を配備し、清水では次郎長(東海道封鎖)が、江戸では新門辰五郎(江戸を焼き払う)を配置し、同時にフランス、イギリスとの外交交渉を行い。もしもの場合は官軍を壊滅する計画を用意していた。

 要するに幕府は戦う道を選ばなかったが、戦っていれば間違いなく官軍の負けだったのだ。それが解ったからこそ官軍は無血開城に応じざるおえなかった(こういうのを負けと言うのだ)訳である。
結論:幕府がもしも薩長と同じような愚連隊だったら、恐らく日本から薩長の人間は消えていただろう。これは土佐も一緒だ。幕府には日本を守ると言う大義があったから戦う事をしなかった。明治維新が成功したのは日本が紛れも無い文明国だったからなのである。だから与路^ッパの列強も日本だけは植民地にする事が出来なかったのだ。

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