車社会が人間性を破壊すると言う筋立てで書こうかと昨日書き始めたのだが、うまくまとまらない様なので棚上げしたものを改めて書いてみたい。
アメリカ人が野蛮なのは典型的な車社会で公共性を育てるインフラが未整備だからだというのが、その仮説だったのだ。公共交通機関を必要とせずに好きなように移動出来ると人間はどんどん自分勝手になっていくのではないか?それがアメリカを駄目にしたのではないか?という論旨だ。
サヨクやリベラルと言われているイカレタ連中は何かと言うと個人の尊厳だ、プライバシーの侵害だと騒ぐが、そこで主張しているのは何の事はない好き勝手にさせろと言うだけの話だ。尊厳でも個人の秘密でもなく自己中心的な社会じゃなければ否だと言っているだけの話である。
そいつらの頭の中にある公には自分自身は含まれず、自分の為に都合よく動く社会という認識しかないのである。だから、義務は一切負わないくせに権利だけを主張するモンスター・ペアレントなどが平気で存在するのだ。それも、これも戦後日本の民主主義と言うものの正体が個人の損得勘定をベースにしたアメリカ型の個人主義だったからなのだが、アメリカ型の資本主義に一丁前に文句を垂れるサヨクやリベラルの連中も根本の部分は民主主義(話し合いによってコンセンサスを決める制度)を、民(私)が主体となる(自分勝手にして良い)社会(個人主義の集合)だと勝手に決めつけた事にあるのだ。
民主主義とは個を殺すことではないが、だからと言って公を殺す事でもないのに、公は個の従属物と履き違えた馬鹿が戦後の教育で大量生産されたために、無差別殺人が自己表現の選択肢の一つとしてになるような社会性のかけらもない輩が生み出される事になってしまったのだ。
そんな連中でも世の中が好景気であれば、そんな馬鹿なことをせずに一生を終える事が出来たのだろうが、さんざっぱら甘やかされて育ったのに社会人になる時期に全ての梯を外され見捨てられた(素晴らしい改革)のだから人間として壊れるのは仕方ないとも言えなくもない...大体その親も人間として壊れているのだから。
結論:小泉政権以降、政府の責任逃れの為に自己責任と言う言葉が平気で使われるようになったが、自己責任という言葉の中には公と言う考えは一切含まれていないし、公の方も個人を守ろうなどと言う気はない更々ないと意思表示をしている言葉だから、社会が悪くなるのは当たり前の話である。国家とは国民あっての存在なのに、国家を政府と考える薄ら馬鹿が政府を動かすポジションに平気でいられるのだから国がよくなる訳はないのである。やっぱり革命か?
火曜日, 7月 29, 2008
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