水曜日, 9月 12, 2007

信長は本当にうつけ者だった 〜第一章〜

 秀吉は百姓(農民と言う意味で差別用語として使っているわけでは無い)であったと言うのは間違いだと言う話はちらほら聞く。山の民であったというのも結構聞くのだが、山の民のことはあまり明らかになっていないが、秀吉は山の民の統領だったいう(これは少数だがある)線で話を一つ進めてみたい。

 さてその山の民に関して気になる点をいくつか上げてみたい。山の民のルーツは秦氏だと言われている。もともと大陸から渡ってきた彼らは天皇家よりも早く奈良、和歌山、京都を中心に勢力を誇った豪族であった。鉄器などを製造する技術に長け、鑪(たたら)や鉱山技術、建築技術を持った一族だった。そして京都を朝廷に譲った後、元々の勢力であった吉野、熊野の地へと移り、各地へ鉱山開発で進出していき山の民になったと言われている。

 実は山の民である彼らには租税が課され無かった。いわゆる律令外の非人なのだ。つまり非人のルーツは人間以下と言う意味ではなく、律令の権限外の人達という意味があったという話だ。彼らの中には芸能を生業として全国各地を移動する者(忍者)も多く存在し、闇の世界のネットワークを持っていたとも言われている。そのため朝廷も手を出せなかったと言うわけだ(本当かどうかは知らない)。その秀吉以前の山の民の中には以下の人達がいる。

空海:吉野の金峰山で修業した空海は秦氏の支援で唐入りしたといわれる
後醍醐天皇:朝廷転覆のために吉野で秦氏の庇護を受ける(吉野は朝廷も手を出せない地域だった)
楠木正成:山の民であり、世阿弥、観阿弥とは姻戚関係。元々秦氏の流れをくむ忍び

さて、本題にそろそろ入ろう。うつけ者と言われていた信長は本当は軍事の天才だったのだろうか。ここで織田信長の動きを見てみると1554年を境にして突然変わっていることが明らかになる。1551年の父の葬儀あった頃までは、ただのうつけだったものが1554年に何故急に変わったのだろうと気付けば答えはすぐに出てしまうのだ。1554年は、今川陪臣であった木下藤吉郎が織田信長に仕えた年である。

結論:木下藤吉郎がいなければ織田信長は、ただのうつけだったのである。

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