水曜日, 9月 26, 2007

謀略

 謀略と言えば森・小泉政権を思い出してしまうが、今回はそんな直近の話では無く明治維新以降の話を書いてみたい。

 明治維新と言えば公武合体派であった孝明天皇の弑逆が一番だろう(本当なの?)が、それ以降も色々な形で謀略は行われた。そして、その裏にはいつも長州の影が見え隠れしているのである。暗殺と言えば薩摩(坂本龍馬暗殺?)で、謀略と言えば長州なのである。

謀略
その1:天然痘。孝明天皇は当時流行していなかった天然痘にただ一人罹ってお隠れになったことなっているが、その不自然な死は弑逆だと言われている。その後の動きを見てみると長州などの討幕攘夷派と連動していそうだが、皇室内に出入り不可能な外部の人間が行う事は不可能なため末端の公暁に過ぎない岩倉具視による宮廷内クーデターと言われる。徳川慶喜同様、聡明だった孝明天皇を討幕へ翻意させる事が不可能(ヨーロッパとてを結んだ薩長にとって由々しき問題だった)だったのが弑逆の最大の理由なのである。
その2:征韓論。今では征韓論と言えば西郷隆盛で、武力で韓国を占領しようとしたと言う話になっているが、西郷の主張は話しあいによって開国を進め日中韓の3国でヨーロッパの侵略から東アジアを開放しようと言う話だった。新政府発足の通告と国交を望む交渉を拒否された時に征韓論が国内で沸騰し、居留民保護を理由に派兵を唱える板垣退助(こちらが本当の静観論者)に反対し、使節団として赴こうとしたがヨーロッパ視察を終えた長州の使節団が帰国して時期尚早と中止され、西郷まで征韓派とされ下野することになっってしまった。長州の横暴に対する答えが西南戦争だったのである。この謀略の首謀者は岩倉と大久保である。
その3:韓国併合。韓国併合を理由に暗殺されたために今では、まるで伊藤博文が韓国を併合させたように考えられているが、伊藤博文は日韓併合には一貫して反対の立場をとり、賛成していたのは山縣や桂の長州閥(伊藤も長州だが、考え方が全く違った)だったのである。そうして伊藤博文に韓国併合の濡れ衣を着せるために韓国統監府の初代統監に付けた。伊藤博文が暗殺された本当の理由は、英米による満州・朝鮮に対する干渉と陸軍による横暴を封じるためにロシアとの協商条約を結ぼうと動いた為(ハルビンにはロシア蔵相であるココツェフが、わざわざ訪れている)である。この謀略の首謀者は山縣と桂である。実際に暗殺を実行したのが安重根かどうかなんて瑣末な問題に過ぎないのだ。

結論:謀略事件はその後に権力を掌握した者が首謀者か関係者と言うのが相場である。そして自分のアリバイを工作のために、関係のない事柄をその事件に結びつけ本当の理由を隠ぺいするのである。死人に口無しだからいくらだって好きなように言い張れるのだ。

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