火曜日, 10月 31, 2006

時間は取り戻せない

 ゆとりという言葉の誤用(文科省で使われていたゆとりの意味は余裕があるのではなくて楽をするというものだった)に毒されたために慌てふためいている訳だが、本来ゆとりというのは全てを終えた上にあるものであって、先取りするものではない。そんなことも分からないようなバカが文科省では幅を利かせることができた訳だが、やはり文科省は4流省庁であったことを図らずも身をもって示した訳だ。

 それにしても大切な時間をいかにムダにしてきたのだろう。我々の時代にも詰め込み教育という問題があった(理解はいらないから覚えろという人をバカにした教育システム)。しかしそれの揺り戻しの結果が時間の短縮だというのでは話にならない。世の中には単純に覚えてしまったほうが良いものと、理解しなければいけないものが純然とある。それは全く別の概念で成り立っているのに一緒くたに出きるとバカは考えるのだろう。ようするにそいつらには理解力がないのだ。ゆとり教育がどれ位の期間続いたのかは恥ずかしながら知らないのだが、今回の騒動でアメリカ型のバカ教育が影を潜めてくれることだけを祈る次第である。


結論:教育には躾けと同じように覚えるもの(理解する必要はない)と理解するもの(考えるということ)がある。読み書きは覚えるものであり、社会や科学や数学は理解するものだ。そして音楽や美術は感じるものである。つまりその教育の手段は全く違う。それなのに理系か文系かなどという別な尺度で教科をわけてしまった上に、全てを覚えるものだとしてしまった為に教育が衰退してしまったのだ。

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