月曜日, 1月 12, 2009

漢字教育を考える

 戦後の日本語教育がおかしくなったのは二十六年に出されたGHQによる漢字制限に端を発する。紅毛碧眼が漢字は複雑怪奇で到底覚えられるものではないと考えるのは自由だが、ハングルや輿論に関して書いたのと同様に漢字が制限してしまえば漢字が消えるだけでは無く、それが表現していた概念そのものが変質してしまう弊害が発生してしまうのだ。

 確かに易しい漢字と難しい漢字を比較すれば覚えやすいのは易しい漢字に決まっているが、かなを覚えてしまった後に易しい漢字だけに制限する理由は何処にもない。現に、3歳児から漢字の四文字熟語を覚えさせている幼稚園では3歳児でも、”一気呵成”や”曖昧模糊”などを朗唱でき、5歳児に到っては歴史的仮名遣いの竹取物語を暗唱し、"論語”は白文で読み下す事が出来るとSapioに書かれていた。

 見た事も無い漢字を読めないのは子供も大人も同じ(見た事がある筈なのに読んだ事が無いために誤読する私のような大の大人も多い。麻生さんもその一人だ)である。日本語には、かなという表音文字が存在するのでどんなに難しい漢字であってもルビさえ振れば、かなを覚えた後は子供も大人も区別無く文章を読む事ができる(意味が分からなくても読めれば幼稚園児であろうが国語辞書を引くことができる)。このように日本語には他言語には無い非常に素晴らしい思想体系が用意されていたのに、戦後の日本語教育はそれを捨ててしまったのだ。話し言葉と文字(漢字)が遊離してしまったために、聞いた事はあるが見た事の無い言葉の誤用が多発するようになってしまったのだ。

 麻生総理が誤読するのは役人が作った文章をただ棒読みしているからだなのが、現内閣が出してくる政策が麻生総理の考えではないことは誤読の多さで教えてくれた功績は多大だろう。下手に頭の良い(漢字の読める)大臣だったら化けの皮(総理の方では無く役人の方)が剥がれ得る事はなかったのだ。現在出されている政府案が臍で茶を沸かすほどふざけたものだと国民は考えているようだが、だとすれば次の政権にやってもらわなければいけない事は景気回復よりも先に官僚から政策立案の権利を奪う事だろう。下らない政府案を提出しているのは内閣では無く官僚達なのは間違いないのだ。

結論:役人達がGHQに協力して奨めてきた愚民化政策(漢字制限)は、遂に首相にまで影響を現してきた(小泉はもっと酷かった筈だがワンフレーズしか言わないのだから誤読しようが無かった)。政府の答弁は官僚が勝手に喰った文章である事が遂に白日の下に曝されたのだ。そろそろ省益しか考えられない役人達に退場をお願いする潮時なのである。ちゃんと漢字教育をしておけば漫画しか読めない総理など誕生しなかったのに...

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