水曜日, 7月 21, 2010

脳死と臓器移植

脳死状態になったら臓器を提供することが正しいといつからなってしまったのだろう。健康保険証の裏面には臓器移植に応じるかどうかのサイン欄さえご丁寧に用意されている。臓器移植さえあれば救われる命がある事は確かかも知れないが、そこに本当に生命に対する尊厳がある様には思えない。西洋的な功利主義はあるが生命に対する倫理観は欠如している。

キリスト教的には臓器提供は博愛なのだろうが、私には折角使える活きの良い臓器があるのだから捨てないで使うという唯物思想にしか思えない。脳死状態になってしまった人間はその瞬間から臓器の塊になってしまうのが臓器移植の正体なのである。そして脳死という

脳死と言う言葉が当たり前になってしまったので忘れているかも知れないが、脳死よりも先に臓器移植(心臓移植)があった。脳死は心臓移植を可能にするために新たに作られた死の定義に過ぎない。心臓死しか認められなければ、心臓移植は永遠に不可能だからだ。脳死を死と認めれば同時にその他の新鮮な臓器(脳以外の器官は生きているのだから)も手に入るのだから、医師や有識者という道徳感の麻痺した連中を中心に脳死を人の死とする運動が巻き起こったのは当たり前の話だったのである。

中国では臓器移植のために多くの犯罪者を死刑にしていると欧米諸国は人道主義を口にするが、臓器移植に対する考え方に大きな違いはない。外科医にしてみれば移植を待つ人々が増えれば増えるほど脳死患者が増えてくれなければ困る。そのために編み出されたのが脳死判定なのだ。

多くの人は脳死判定がどう言う物なのかは知らないだろうが、心ある医者は脳死判定を決して行わない類いのものだと考えてもらいたい。何故なら、脳死判定の最後のテストは人工呼吸機を止め自律呼吸が行えるかどうかの判定なのだが、実際に行われるのは10分間の人工呼吸機の停止である(成人は、低体温状態など仮死状態でない限り4分間以上酸素補給を止めれば脳細胞は死滅する)。

結論:脳死判定とは脳死を判定するのではなく完全に脳死にする方法に過ぎない。人間を物扱いする臓器移植も脳死判定も生命の尊厳に対する冒涜なのである。

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