水曜日, 4月 15, 2009

教えると言うこと

 世の中には教えると言うことと、ご託宣(屁理屈)を並べることの違いを知らない薄ら馬鹿がいる。受験勉強なら単純に暗記をすればいいかも知れないが、そんなことと学ぶことは全く違う。専門用語を覚えなければいけない時に、それを別な言葉に置き換えたのでは覚えようがないが、概念を知るには何も意味不明な言葉(やたらと必要も無い横文字や漢字)を使って複雑にする必要などないのだ(往々にしてこういう人は学歴や容姿にコンプレックスを持っている)。
 
 複雑な漢字や横文字を使える自分に酔いたいのは良く分かるが、ものを教える事とものを知っている事を混同されたのでは、教わる方は迷惑なだけなのだ。大体こう言う人間の書く文章は諄いか、何が言いたいのかが分からない悪文が多い。文章と言うのは量では無く質だと言うことが分かっていないから取りあえず厚みで圧倒しようとする。要は、簡潔に文章をまとめ上げられるほど本人が内容を理解していないだけの話なのだ。
 
 こんな人間のプレゼンや講義を聴かなければいけない事位に不幸なことは無い(中にはこう言うのが好きなのもいたりするが、そういう輩は何れ同じ道を歩んで人に迷惑をかけるのだ)。プレゼンや講義と言うのはパワポを読ませることでは無い。パワポなんてキーワードを表示し、今何について話しているかが分かれば良いだけなのに、きっと量で圧倒すれば尊敬でもされると考えているのだろう。教わる方は恐らく圧倒されいると思うが、それは講義をする人の知識の多さでは無く馬鹿さ加減の方である筈だ。
 
結論:たった1時間半の講義のプレゼン資料がパワポで53ページもあるのを見て、自己満足とは傍迷惑の事だと教えられた(一種の反面教師か?)。教えると言うのは、ノートを取らせる事では無く、聞いた者が自発的に学びたくなるように考えさせることなんだけど、それって本当に頭が良くないと出来ないこと。私の偏見だと断っておくが、ガリ勉タイプには教育者の資質はないのだ。何故なら学び方は人それぞれだとは、理解できないからである。

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