水曜日, 9月 27, 2006

天声人語の言いたいこと

 朝日新聞などと言う下らないものは読まないことにしている。その中でも天声人語と言う屁の突っ張りにもならないコラム(これを素晴らしいと言う人間が世の中に入るらしいが、そいつらの理解力のなさはまさに素晴らしい)は、何も主張を持たない珍しい文章である。主張や結論があるように思うのは単なる勘違いで、あれほど酷い文章は世の中には数少ない(私のブログの方がもっと酷いが、無理やりでも結論だけはある)。

 天声人語メーカーなるソフトで、天声人語かと見まがう文章が作れてしまうほど内容がお粗末だと言うことなのだが、あれを日教組のバカ辺りが持ち上げるものだから皆いつの間にか洗脳されてしまうのだろう。

ここから切り張り---2006年9月27日天声人語
 安倍晋三・新首相は、郷土・山口が生んだ幕末の志士、吉田松陰を、よく演説や著書で引き合いに出してきた。『美しい国へ』(文春新書)では、松陰が好んで使ったという孟子の「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば千万人といえども吾(われ)ゆかん」を引いている。

 そして、こう述べる。「政治家は実現したいと思う政策と実行力がすべてである。確たる信念に裏打ちされているなら、批判はもとより覚悟のうえだ」。小泉・前首相にも通じていそうな「信念」への強い傾きだが、問題は「確たる信念」の中身で、それがこれからは「首相の信念」として問われる。

 いわゆる歴史認識についての「あいまいさ」も、国会の場などで論議になるだろう。政治思想史学者だった丸山真男が、第二次大戦が終わった45年に記したノートに、同じく孟子を引いたくだりがある。

 「間違つてゐると思ふことには、まつすぐにノーといふこと。この『ノー』といひうる精神——孟子の千万人といへども我行かんといふ精神——は就中(なかんずく)重要である」(『自己内対話』みすず書房)。

 格言の持つ幅の広さが感じられる。丸山は、このノーといえない弱さが問題であり「まづ人間一人一人が独立の人間になること」とも記した。歴史を省みた言葉として、今も重みがある。

 新首相は昨夜の記者会見で「しっかりと」を連発した。その新しい内閣の方は「要がしっかりと見えない扇」を思わせる。安倍氏の言う信念と実行力が、まだよく見えないからかも知れない。どんな「要」になるのかを、しっかりと、見届けてゆきたい。
ここまで---

さて何を言っているだろうか
第一段落:安倍晋三は吉田松蔭がすきだ(そりゃ良かった)
第二段落:安倍首相の確たる信念が首相の信念である(意味が分からないぞ!!)
第三段落:安倍の歴史認識の曖昧さが問題になるといいながら、丸山真男の話へ飛ぶ(つながりが変だぞ)
第四段落:丸山の吉田松蔭の方が格言の持つ広さがある(同じ格言なのにどうして広くなるんだ)
第五段落:安倍内閣は要がしっかりしていないから、しっかり見届けたい(お前は基地外か支離滅裂だぞ)

結論:天声人語は恐らく人が書いているものではない。もし人間ならとっくに人をやめてしまっている奴に違いない(恐らく痴呆症だ)。人が書いていないのだからまじめに読んではいけない。毎日がこの調子なのだから基地外が感染(うつ)るのだ。

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