木曜日, 7月 13, 2006

清めの塩騒動

 京都や鳥取で葬式の時の”お清めの塩”は科学的根拠がなく、そう行為が差別を生むと言う”科学的根拠”のない理由で自治体が”お清めの塩”を廃止しようとしているらしい。確かにお清めの塩が科学的に意味があるかと言えば無いのは明らかだが、だからやめましょうと言うのは理由にはならない。そもそも科学的根拠などを持ち出したら宗教など成り立たない事が分かっているのだろうか。

 宗教とは科学の問題ではなくあくまでも心の問題(心理学はこの辺りを扱う訳だが、宗教より偉い訳ではない)であって、それを自治体風情があれこれ言う事は、それこそ差別を助長するのである。つまり宗教活動や因習にとらわれている人は、犬畜生並みだと言う選民意識だ。まあ大抵そんなことを平気で言う奴らは科学と言う宗教に毒されている”共産主義者”なのだが、自分たちのプロパガンダがプロパガンダと気付かないほど頭がいかれているのである。

 私は特定の宗教を擁護するものでも無いし、大抵の宗教はなくても良いと思っているが、それでも自分に縁のある人の今生の別れに礼を尽して儀式を行う行為は合理で済ませるようないい加減なものではないはずだ。

結論:差別に過敏な関西方面だから起きた騒動だと思うが、それはどこかに賎民(汚れている職業に就いている人達)と自分たちを分けて考えているからだろう。その気持ちが無くならない限りお清めを無くしても差別は絶対になくならないのである。

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