水曜日, 9月 02, 2015

オリンピック問題を勝手に考える

後からなら偉そうなことをいくらでも書けるだろうと突っ込まれるのは承知の上で今回の騒動を勝手に書きなぐってみたいと思う。オリンピックなんて必要なのかよという本質を突いても仕方がないので今回はその辺には触れないが今回はオリンピック運営の本質の部分ではなくデザインがらみの問題が噴出したのが特徴である。そしてそうなった一番の理由はデザインそのものを意匠と勘違いしている連中が最終決定権を持っていたことに尽きる。これはオリンピックだけではなく日本の全産業に蔓延している病根だと思うのだが、誰もその視点で今回の騒動を語っていないのは恐らくそれにさえ気づかないのだろうと思う次第だ。

そう考える理由
その1:最初に問題となった新国立競技場のデザイン。デザインの良し悪しは好みの問題なのでそれをとやかく言う気は更々ないがコンペに提出された段階で実現可能かを選択基準にしなかったのが最大の問題。コンペで選んだ上に最初のデザインのままでは施工が無理と分かり勝手にデザインを修正し挙句の果てに建築費が跳ね上がって計画見直し。書割じゃないのだから東京のようにあちこちに地下鉄が走っている地域は地盤を含めて予定地に立てられるかを最初に検討しなければいけなかったのにそれを後回しにしたのが大きな間違い。
その2:おもてなしの時のエンブレムのどこに問題があったのかは知らないが真似かどうかは兎も角としてわざわざこれを選ぶのかと思うような別にどうってことのないデザイン。そんなものだから本当に一から作ったのかもしれないがパクリだと訴えられる結果になった。アルファベットを使っただけのデザインのためそれを見て日本ならではの何かを感じるかと言えば全く感じない代物。他にどんなものがエントリーされていたかは知らないが、その中で今回のエンブレムを選んだ人たちの責任は大きい。業界に快く思っていない人たちが多かったと見えどう考えても関係者からのリークが元だろうなと思えるパクリ情報が氾濫し、挙句に選考委員たちとの人間関係まで暴露される始末。ハマった本人が悪いのだが「嵌められた」とコメントした佐野さんの話はあながち妄想ではないのである。
その3:別に不正があったとは言わないが電通利権とされるオリンピックにあって何故か博報堂仕切りであったエンブレム選考。他にどんな人のエントリーがあったのかは作品も作者も公開されていないのために不明なので端からは博報堂の身内だけで決めたように思えてしまうのも問題。どうも大手の広告屋さんが絡んだこの手のものって(テレビ関係もお手盛りやお約束ばかり)日本では公正な選考が行われていないのではないかと。そして一番の問題点は最終的に選ばれた佐野の作品は応募作に対し修正がなされたこと。どう考えてもそんな馬鹿な話はない。

結論:64年のオリンピックと違いそこにあるのは国威発揚ではなく単なる景気対策。だから国立競技場跡地に建設可能かどうかを真っ先に考慮せずにデザインを選定。エンブレムのデザインなど大した意味はないからと安易に選定。世界に日本を示すというビジョンなどなかったのだから立て続けにみっともないことばかり起こるのだ。

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