日曜日, 8月 30, 2015

真実と事実 〜第三十四章〜

教科書ではまるで暗黒時代にしか思えない江戸時代。四民平等を持ち上げるために必要以上に士農工商を悪し様に書き幕府は搾取の御本尊とされているがそれは実態とはかけ離れたものである。明治維新で幕府が解体されたがそれは幕府が悪政を敷いていたからというのは大きな誤解だ。もしも本当にそうであれば300年近くも内戦にならず施政が続くことなどなかったのである。ということで今回は江戸時代に関する大きな誤解を正してみたい。

定説:江戸時代は五公五民の厳しい年貢率で農民は虐げられていた。飢饉や一揆なども頻発。士農工商の身分制度は厳格に守られていた。それに不満を持っていた民意を反映する形で明治維新は成功した。

事実1:年貢率は帳簿上は5割に近いがその大元となるのは太閤検地による村請制。収穫量は享保の改革行以降改定されたが新たに開墾された新田で得られた米は年貢の対象ではなく商品米として大阪・江戸などに流通。豪農が生まれる元となった。越後の蔵米(年貢)32万俵に対し商品米が70万俵との記録もある。実質年貢率は15%に過ぎない。なお、元禄以降に検地は行われていない。米の取れない地域は商品作物等の売却代金をもって他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制を例外的に適用していた。
事実2:幕府の経済は米本位制だったため、その他の農作物は年貢の対象外。多くは商品作物として流通。綿や藍などの特産物は課税対象ではないためそこで得られた利益が経済の発展に寄与した。幕藩体制時代各地方は東北の冷害による飢饉などを除き独立採算が可能であった。商品作物として繭、生糸、綿、小豆、粟、野菜。農産加工業の1つである酒造業の収入、農閑期の別の仕事、出稼ぎなども収入源があり実質年貢率は10%を切っていた。
事実3:農作物だけではなく冬などの農閑期に家内手工業で作られた織物などの収入源を持つ農民は役人である武士よりもおしなべて裕福だった。一説によれば貧農でも換算すれば現在で年収300万に対し中級の役人が概算で年収100万とも言われる。物々交換などもあったと思われるため現金換算で全ては語れないが、武士と比べ農民が決して貧しかった訳ではないのである。
事実4:農家には同時に工、商の担い手の側面もあったが、農家以外の工と商も完全に分離されていた訳ではない。江戸町民などは無税に近い低税率。年貢以外の税率はおしなべて低いものであった。

結論:幕府が大政を奉還したのは重税を課し国民をいじめて民心が離れたからではなく植民地主義の西欧諸国に日本を食い物にされるきっかけとなる内戦を防ぎたかったからである。

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