水曜日, 5月 06, 2015

自動運転のジレンマ

AppleやGoogleが自動車向けのシステムを用意しているからすぐにでも自動運転になるのではないのかと騒ぐ人がいるが、そう言う人はシステムや運転するユーザの心理を全く考えていないなと実感する今日この頃。真剣に考えたら問題山積みなのだが、そう言う人はレンジでチンすれば食べられる「サトーのご飯」なみに自動運転を考えているらしい(要は何も考えていないと言うこと)。

自動車メーカー各社はアイサイトなど事故を未然に防ぐ(被害を減らす)システムを出してきているが、これと自動運転はまるでレベルの違う話。電車に乗っている時に走行状態を全く気にせず(鉄以外は気にしないw)に目的地に連れていってくれるのと同様のシステムがあったら便利だよねの認識なのだ。そんなに運転をしたくないなら自動車など持たずタクシーにすれば良い私などはと思うのだが…

自動運転となれば運転を受け持つのはAIシステム。チェスや将棋で世界チャンピオンを破ったりしているのでまるで人間よりも賢明な判断を常にしてくれると勘違いしているようだが自己学習機能を備えていようがやっていることは最適解を選び出すだけ。人間が咄嗟の判断で回避するのと比べてどれだけ素早く対応出来るかは疑わしい限りだ。AIの方が優れているのは人間が判断時間を要するような問題の最適解を出すことであって、考える間もなく処理を行ってしまう反射レベルの反応などは到底不可能なのである。

ちょっと前に流行ったサンデル教授の「白熱教室」があったが、「車の前に突然人が飛び出してきて事故を防ぐためにハンドルを切ろうとした先には多くの子供が」と言った場合にAIは何を基準に判断をするかだ。人としての価値ならば飛び出してきた人の社会的な重要度(金額換算になるのだろう)となり、一人の大人と複数人の子供のどちらの方が金銭的な価値が高いかでどちらを轢くべきかを判断するだろう。もしもその人が大富豪なら回避されホームレスなら…また命の数が基準であれば大人一人が轢かれることになる。勿論二つを比べた場合の回避の可能性の高さを判断基準にするかも知れないが、それによって乗車中の人間の命に関わるとしたらより判断は複雑に…

そして、その結果起こった事象に対して自動運転の利便を享受していた者の道義的責任はどうなるのか。そのシステムを使った人間のせいなのか、そのアルゴリズムを組み込んだ人間のせいなのか…

結論:自動運転システムが可能になるには人と車、車同士が事故を起こすことがあり得ないようなインフラが全て整った後の世界の話。実験としてステアリングに全く手を触れずに操縦出来るかどうかなんてどうでも良い小さな話なのである。

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