金曜日, 11月 18, 2016

法律は何のためにあるのか?

日本では憲法といえば欽定だった大日本国憲法と同じように現在の日本国憲法も不磨の大典と信じている人がいる(日本では革新勢力がそうなのだから笑ってしまう)。アメリカに押し付けられたかどうかで未だに文句を言っている自称保守の方々もいるようなので右も左も憲法というものの本質を理解していないのだろう。憲法は法律の中の法律ではあるが決して経典のように勝手に改廃を許されない類のものではない。その証拠に日本が明治維新後に同じ立憲君主国である英国を手本としたかったが大英帝国は不文憲法で憲法典は存在しないためベルギー憲法やプロイセン憲法を手本として影響を受けたと言われている。

そして日本国憲法の草案を押し付けたと言われているアメリカは成文憲法を持つが常に細かな修正が加えられ常に時代に即したものに改変されている。もちろん、憲法は他の法律の方向性を決める一番大事な法律であるから年がら年中変わっていたのでは困るので簡単に修正ができないように敷居を高くするのは当然であるが改正を口にすることさえタブー視するようでは文明国家とは言えないのである。

法律というものは時代の要請、趨勢に合わせてより良きものに変わっていく生き物。それは総元締めである憲法も同じなのだ。という訳で随分くどくなってしまったが表題に戻って法律は何のためにあるのかの根本を考えることが重要になる。道路交通の違反で罰金を警察に召し上げられるので道路交通法は警察のためにあると考えがちだが(違反切符から考えれば間違いなくそうだ)、道路交通法は道路通行の安全を確保するために存在する。信号無視やスピード違反が取り締まられるのは事故を防ぐため。つまり事故が存在しなくなれば道路交通法など必要ない。

常識で考えれば車の一台も行き来していない状況の道路の横断は好きなようにしても構わない(ヨーロッパでは自動車が高速で行き交っていても普通に横断する。歩行者は轢かれないように注意しているし車の方も轢かないように注意を怠らない)が、それを法律にするとなると法令よりも条件の書き込みの方が増えてしまいどんな時に適用されるのかが分からなくなってしまうので、原則としては車が一台も来なくとも信号を無視して歩行者が横断をすれば違反となる。違反切符を切るかどうかは警官次第だが原則的には違反切符を切らないことは法に触れる。

これでお分かりなように法律とはある条件下でどうしなければいけないかを規定しているもの。日本国憲法の第九条などは日本が首謀者となった戦争が終わり世界に平和が来た(実際には平和にはならなかったが)。日本が軍備を持たなければ戦争は起きないよねと言う戦勝国の大きな空気の元で日本自身もう戦争はこりごりだと感じていた中での総意で作られた条文である。日本を戦場にしてアメリカと戦うほどの武力を持っている国は日本周辺にはソ連以外は存在しない状況下では防衛に予算を立てる必要がない非常にありがたい条文だった。しかし、憲法発布ご朝鮮戦争が勃発。流石にアメリカもすぐに再軍備しろとは言えなかったので憲法の隙間を狙って軍備ではなく治安維持のための重武装警察との解釈で自衛隊(当初は警察予備隊)を創設した訳だが北朝鮮や中国、韓国など周辺国が領土を侵す可能性が出て来たのに9条に修正を入れさせないために憲法改正は許さないと言うのだ。

結論:憲法の規定に縛られるのは自国民だけ。どんなに理想的な素晴らしい憲法であっても他国を従わせる力は存在しない(国連に戦争を終わらせる力がないことを見れば日本にそんな力はないことぐらい分かりそうなんものだが)。法律は基本的に身を守るために存在するもの。法律を守るために人が存在する訳ではないのである。

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