木曜日, 9月 08, 2005

物は言い様

 先日、叔父と話をしていて非常に為になったことが有る。食べ物の話(道端に有ったドングリの仲間の木の実が美味いという話)をしていて、トマトとかピーマンが嫌いな子供が多いと言う話になった。そこで叔父が一言「トマトの青臭さが無くなるというプロの料理人がいるには呆れる」と言ったのである。トマトは青臭いのではなくトマト独特の香りがするだけだと言うのだ。確かに母親が青臭いと言えば、子供はトマトのその臭いを嫌いになるに決まっている。ドリアンが食えないのもあの臭いをウンコの臭いだと言ってしまうからなのだ。別にドリアンの中にウンコが入っている訳ではない。一番近い臭いはウンコかも知れないが、熟したドリアン独特の臭いと言えば角が立たない(でもウンコの臭いだとは思う)。

 これは一見、人権派の馬鹿が宣う言葉の言い換えに似ているようだが大きく違う視点にたっている。彼らは自分たちに都合の悪い言葉は抹殺し、都合よく言い換えてしまうが、叔父の主張はそのままの状態を伝えることが大事でことさら悪い印象を与えるように言う必要は無いと言っているのだ。子供の好き嫌いを決めているのはこれは親や周りの大人達なのである。子供がドリアンを初めて口にする時に、ウンコみたいな臭いだなと感じている時に、良き大人が”独特の臭いがあるけれどとても美味しいんだよ”と言えば恐らく食べるのではないだろうか。その時に”ウンコ臭いけど以外にイケルよ”などと言ってしまえば、ドリアンと聞いただけでウンコが浮かんでしまい、食べようなどとは決して思わないはずである(それでも喰う奴はスカトロ野郎である)。

結論:子供に対して言葉を使う時には自分の印象を交えずに出来るだけ子供自身で判断出来る力を付けるようしなければいけない。そうでなければ私のように変な奴ばかりになってしまうのである。

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