月曜日, 11月 02, 2015

幕府崩壊は何が原因だったのか?

年表
1853年3月11日(嘉永6年2月2日):小田原地震(神奈川)
    推定マグニチュード 6.5。全壊した家は1,032戸、半壊した家は2,477戸、
    被害が出た家は544戸。死者も24人。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日):ペリー来航
1854年3月31日(嘉永7年3月3日):日米和親条約締結
1984年7月9日(嘉永7年6月15日):伊賀上野地震(三重)
 推定マグニチュードは7 1/4(兵庫県南部地震とほぼ同じ)。死者は995名。
 うち伊賀上野付近の死者は625名、負傷者994名、家屋倒壊2270戸、306件。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日):安政東海地震(東海沖)
    推定マグニチュードは M = 8.4。被害は関東地方から近畿地方におよび、
    沼津から伊勢湾岸沿い、特に箱根から見附あたりの東海道筋で家屋倒壊・焼
    失が著しく、また、甲府盆地も被害が甚大であった。家屋の倒壊は甲斐・信
    濃・近江・摂津・越前・加賀までおよぶ。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日): 安政南海地震(南海沖)
    推定マグニチュードは M = 8.4に換算。被害は中部地方から九州地方へ及び、
    2つの巨大地震が重なった近畿地方では東海地震における被害と明確に区別ができない。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日): 豊予海峡地震(大分)
    推定マグニチュード(M)7.4の地震。2日前に発生した安政南海地震と被害
    地域が重なるため、現存する記録からはいずれの地震による被害か区別が困難
1855年11月11日(安政2年10月2日):安政江戸地震(南関東直下)
    推定マグニチュードM7クラスの震度6の直下型地震。死者は町方において
    10月6日の初回の幕府による公式調査では4,394人[21]、10月中旬の2回目
    の調査では4741人であり、倒壊家屋14346戸。死者推定1万人。
1856年8月21日(安政3年7月21日):ハリス下田に総領事として着任
1856年8月23日(安政3年7月23日):安政八戸沖地震(青森)
    推定マグニチュードは M = 6.9 に換算。津波による甚大な被害。
1858年4月9日(安政5年2月26日):飛越地震(北陸)
    推定マグニチュードはM7.0 - 7.1。北陸地方や飛騨国を中心に大きな被害を
    もたらし、死者426人、負傷646人、家屋の全半壊・流失2190戸とされてい
    る。家屋の倒壊も著しく、飛騨では700戸余りが損壊し、死者200 - 300人。
1858年7月29日(安政5年6月19日):日米修好通商条約締結
1858年10月11日-(安政5年9月5日-):安政の大獄
1860年3月24日(安政7年3月3日): 桜田門外の変

結論:これだけの地震が幕末の短期間に立て続けに起こったのではどんな政権でも続くわけがない。幕府が薩長との戦争を回避しようとしたのはそれどころではなかったからなのである。

0 件のコメント: